Monday, June 30, 2008

教養科目

私の大学では、基礎課程にて、主に実践的知識を養う科目が教養科目として組まれたカリキュラムでした。例を挙げれば、様々なマテリアルの特性、モデル制作に必要な機械の操作方法など、工房実習と組み合わされた授業がほとんどだったと記憶しています。

それに対して本課程では、デザイナーとしての教養を育てるような講義が必修または選択必修科目となっていました。
これには、うちの大学が創設された経緯から、デザイン論理に力を注いでいたということが関係していると思われます。(実はそんなこと知らなくって入学したのですが…)

日本でも美術大学で勉強したのですが、私の通っていた日本の大学では必修科目でもある程度講義に出席し、学期末に(かなりいいかげんな)レポートさえ提出すれば単位が取れる(筆記テストなんてほとんどなかった)という、はっきり言えば楽なシステムでした。
しかし、ドイツの大学では、デザイナーとしてプレゼンテーション能力を高めるため、実技の課題の発表だけでなく、教養科目でのレポートの発表も義務とされていました。
そして、レポート発表後、そのレポートの文章に手を加えることはもちろんのこと、独自のレイアウトデザインを加えたドキュメントの提出がありました。

教授いわく「レポートくらい、本を2~3冊読んで、その内容をまとめて、ちょっと独自に展開させたものを出せばいい」という話でした。
が、ドイツ語を母国語としない私のような外国人としては、最初の1年間は本当に泣きながら本を読みつつ文章を書き、Power Pointを仕上げ、その後、レイアウト用ソフトを使って仕上げなければならない作業が本当に苦痛でした。
何より、早めに文章だけでも仕上げ、ドイツ人の友人に文章の校正をしてもらわねば発表も提出もできません。
最後の方でも他の学生よりも随分早くにリサーチなどの準備を進め、綿密に計画を練りつつ仕上げないと終わらない上、単位ももらえない作業でした。
しかし、私の学科では筆記試験があまりなかったため、その点ではきちんと計画的に進めておけばどうにかなったということも言えます。

結果としては、このことが自分のドイツ語能力の向上を助けてくれたわけです(私の場合、入学時のドイツ語能力がギリギリ大学でやっていける程度でした)。
が、やはり、大学に通いながらドイツ語を勉強するよりは、大学に入る前にドイツ語ができた方が言葉によるストレスが軽減される分、他学生とのコミュニケーションなど、他の有意義なことに力を費やせるので、より良い勉強の環境を作り出せることになると思います。

本課程の授業について

うちの大学では、学期の始めにいつもゼミ説明会がありました。
うちの学科の教授プラス、毎学期少なくとも1人は外部から客員教授が呼ばれ、そのほぼ全員が1つか2つのゼミ(プロジェクト)を担当し、そこで扱われるテーマは事前に決定されています。
学生はその説明会にてどのゼミが自分のやりたいことと一番一致するかを見極め、教授側に参加を申し込みます。
もし、その中に「面白そうだな~」と思うようなゼミがなければ、その学期を自主的に「休学」することもできます。(*注1)
中には学生が殺到するような人気のゼミもあり、その場合には教授側からの「何人までなら、面倒を見れる」という指示の元に、早いもの勝ち(教授の持っているリストに早く名前を書いた人が参加できる)、または学生同士の話し合いでゼミ参加者が決められる場合もありました。

各教授にも専門分野があるように、学生にも好みがあります。
別に「本課程の最初のゼミがこの教授だったから、卒業までこの先生のところにいなくちゃならない」というようなことはなかったのですが、自分のやりたいこととそれが学べるゼミ(または教授)というのは大体重なっているものです。
最終的には毎学期同じ教授の下で作品製作をし、その教授に卒業制作の指導をお願いする、というのがうちの大学の学生のパターンでした。

私は本課程にて、家具や環境デザインを専門とする教授、製品デザインを基本とし、その上で人間とモノとの関係をテーマとして扱う教授、そして、テキスタイルやファッションデザインを専門とする客員教授の下で制作していました。

(*注1)
この場合、あくまで自主休学なので授業料、学生費等の支払い義務はあります。
過去には授業料が一切かからないことで有名だったドイツの大学ですが、ここ数年、授業料の導入が進められています。
休学扱いになると、授業料の支払い義務はなくなりますが、休学には病気や出産、育児、企業研修など、正当な理由とそれを証明する文書が必要となるため、この自主休学もなかなか難しくなってきていると言えるでしょう。

Thursday, June 26, 2008

Hauptstudium(ハオプトシュトゥディウム=本課程)

さて、中間試験に合格すると本課程に入ることができます。
基礎課程(Grundstudium=グルンドシュトゥディウム)では「こんなの勉強したいわけじゃーなかったのに…」と思ってしまうような必修科目が山のようにあって、数少ない選択科目も「この2つの中からどちらかを選びなさい」という窮屈なものであることが多いのですが、本課程に入ると、毎学期、10個くらいあるゼミの中から好きなものを選べるようになったりします。(少なくともうちの学校ではそうでした)

私が通っていた日本の大学でも2年生までは似たようなものだったので、違いといえば、中間試験があるかないか、くらいだったのでしょうか?

しかし、学生の自主性を重んじるドイツの大学では、大学も教授も自分から喰らいついてくる学生の面倒は見てくれますが、そうでないものに関しては放っておかれるのが普通です。
中間試験も卒業試験も自分で申し込みをしない限り、誰からも強制されません。
よく言えば学生の自由が認められていますし、悪く言えば、ぼんやりしていると自分だけ取り残される、という状況にも陥りかねません。

ドイツの社会では、就職してからの社員教育というものはあまりないのが普通のようです。
ですので、この本課程中に「将来、自分がどういう分野でなにをしたいのか」をはっきり見極める必要があります。
ここ数年、学生の優遇される学生天国だったドイツは変わりつつあります。
第一に挙げられるのが、授業料の導入でしょう。
ドイツは社会全般において、専門職を担う人材が不足している状況です。つまり、社会は即戦力と」なる人材を求めています。
ドイツの大学を出て、ドイツに残り仕事をしたい場合には、「何がしたくて、何ができるか」を決めた上で、自分を売り込んでいかなければ、新卒であっても就職はなかなか難しいようです。

そういったことから、本課程の科目選択はとても重要ですし、中間試験を終了した時点で卒業を見据え、自分で計画を立てなければ卒業にはなかなかたどり着けないのが事実です。
私の場合、工業デザインよりもプロダクトデザイン(製品デザイン)の方がやりがいがある、と感じていたので、本課程で選択するゼミもなんらかの製品をデザインするものを選択していました。

…なーんて言ってても、私自身なかなか決められず、途中で迷ったり、寄り道したりしてましたけれどね。

中間試験

春休みにようやく、大きな目標の1つであったVordiplom(中間試験)をやっとのことで終えた。
他の大学や専攻の中間試験はどうか、知らないけれど、私の大学の中間試験はそんなに難しいものではない。
なんていうか、神経を削られる試験でございました…。

うちの大学では、中間試験だからといって、特別な筆記試験があるわけでもなく、ただ自分でテーマを決めて、2ヶ月間、資料を集め、コンセプトをまとめ、モデルを作ってみんなの前で発表する、というものである。
この発表前に、教授による口答試験もあるけれど、この試験で落ちる人はまずいないらしい。教授も基本的に合格させるようにしているという。(中間試験では、の話。この間の卒業試験の口答試験で落とされた人はいた)
うちの大学ではこの試験、いつも夏休みか春休みにあり、学期内の課題の発表・提出が終了した時点でスタート。
ただ、学期末の課題が終わった時点で、学生はみんな疲れ果て、干物状態になっているのに、その直後からまた2ヶ月、日程的にはもっとハードな制作が始まるのである。
中間試験で落ちる人はいないというけれど、提出期限に間に合わないことが分かり、途中であきらめて次回の試験に回る人はいたそうだ。
多少ぬるい雰囲気の漂う試験だけれど、試験は、試験。
みんなできる限り良いものを発表したいので、やっぱりストレスとプレッシャーは発生する。
そんなこんなで、試験がようやく終わるころには、みんなフラフラ。
でも、試験終了の感~を味わっている余裕などなく、新学期が始まるのである。
そして、再び、2ヶ月、3ヶ月間の課題制作の日々…。
従って、人によっては試験直後の学期を自主的に休む人もいる。

無駄に年をくった貧乏学生のワタクシには、そんなお休み期間など取っている余裕があるハズもなく、そのまま新課題に突入です。
本当、切っ実に夏休みが待ち遠しいかったっす!(涙)

さて、今回の試験、実は前回の試験が変則的に学期内で行なわれるという、中途半端なことを大学が実施したために、いつもは受験者が10人 前後いるのに、どういうわけか4人。
更に、かなり濃いメンバーが揃った。

韓国人のDちゃんに日本人の私。
この時点で受験者の半分は外国人、しかもドイツから遠い遠い、東の果てのアジア出身者。
そして、私と同じ時期に入学し、他の同期生から「なにしに学校来てるんだろう?彼女、多分、本専攻はドイツ文学で、デザインは副専 攻なのよー(要は、ほとんど学校に来ない)」と陰でこっそり言われてしまっているにも関わらず、それでも幽霊のように大学に残り 続ける、やる気ゼロ女学生・FZ。
そして、やっぱり、私と同期生で最年長、どういうわけか2回も職業訓練を終了したのに、また一から大学で勉強を始めてしまった、 究極のいらんこと言いの33歳・F。

ドイツでは、高校卒業後に3年間の職業訓練(大学入学資格を持っていると、たまに2年間で修了できるらしい)を受けてから、大学に 入学する人はあまり珍しくないけれど、このF、2回の職業訓練を受け、それでも計算が合わないほどの年をくって大学に入学してきた。
私もかなり年はいってる学生だから、人のことは言えないし、Fも多分、どこかで働いたりしてたんだろうけどさ。
私はヤツの前でついうっかり、うまくいかない試験のモデル制作を愚痴ったら、逆に説教されてブルーになったことが…。
Dちゃんも、プレゼンで使うパワーポイントのデータがプレゼン直後まで出来あがらず、ようやく仕上げて使おうとしたら、機能 しなかったことがあって、真っ青になってたんだけど、Fは「こんな直前までもたもたしてて、更に使えないデータを持ってきて!」と本人の 前で追い討ちをかけるようなことをデカイ声で言ってたよ…。
根性が曲がっている、というタイプではないのだけど、疲れている五臓六腑に染みわたるトリカブト的言葉を、これまたここ1番のイライラの最高点で言い放つF。
ヤツと渡り合うためには、健康で鈍感な心身が必要なようだ…。

そして、モデル制作も大変だった。
これがうちの工房の先生達、みんな微妙に仲が悪く、そして、機嫌が悪いと学生に当りちらす。
ある時、どうしても1人で制作できず、工房の先生にいちいち次の行程をききながらやっていたら、「あんたは学校に来てるのに、なんで1人 で制作できないんだ!なにしに学校に来てる」と2回も3回も怒鳴られたり…。
…いや、だからさ…。やったことがないから分からない、それを勉強するためにきいてるんだけど、それに対して怒られても…。
結局、試験期間の2ヶ月、先生達の逆鱗に触れないように、やたらめったらビクビクしつつの制作をすることに。
多分、怒られても気にしなければいいんだけどね。どうせ、夜にはその日のことを全部忘れてるからさ。ドイツ人って。

これは私のドイツ人に対する偏見なんだけど、彼らは良く言えば、根に持たない、悪く言えば、忘れやすいという性質があるみたい。
もちろん個人差はあるけど。
基本的にはストレスに弱いので、人間関係のゴタゴタなどでも、日本人比べると精神的にもすぐに参ってしまい、逆にすぐ参って、あきら めてしまうからこそ、あんまり怨恨が残らないと言うか。
しかし、今回、あんまりにも工房のおばちゃんの先生に理不尽に怒られるもんだから、「分からないから仕方ないじゃん。きかないとできな いし!」とかなりキツク言い返してやったら、それ以来、おばちゃんの態度がよそよそしい…。
おばちゃんの中のブラックリストに載ってしまったンだろうか…?

更に、毎回、試験の公開プレゼンにはポスターを作るんだけど、これを担当したのが、F。
ポスターの試作を見せてもらったら、めちゃめちゃ、戦前、軍隊が使ってた日章旗チック…。
「…こ…、コレはちょっと…。アジア圏の人が見たら、いい気しない人もいるし…」とFには言ってみたのだが、結局、プレゼンの時も多少、 色が変更されてたものの、そのまんまになってしまってて。
一部、「日本人が一緒にやってるプレゼンで、こんなデザインを使って良いのか!?」と韓国人のDちゃんの方に質問した人もいた らしい。
これは後でDちゃんからきいたことなんだけど。
Dちゃんはそのことには、人に言われるまで気がつかず、私もFに「アジア圏では、問題のあるデザインだ」と言ったときにはたまたまDちゃん がいないときだった。
Dちゃんには、「Fがデザインしたものだし、私は気がつかなかったから別にいい」と言ってたし、私は「一応、事前にFにそのことは言った けど、結局、そのままになってた」とDちゃんにも伝えたので、問題は別になかったんだけど、この1件で疲れていたココロが更にドッと 疲れた気がした…。

最後にもう1つ、おまけがあって…。
このプレゼン会場に使用した部屋の片付けをめぐって、その部屋を管理している教授がうちの教授のところに怒鳴り込んできたらしい…。
私ともう1人がすぐにその教授のところに謝りにいって、それで話しは済んだんだけど、最後の最後でこの騒動だったため、試験後にやり 遂げた充実感みたいなものはあまりなく、「もうどうでもいい…。単位さえとれれば…」というヤサぐれた気分だけが残った…。

まあ、あと1年は卒業試験を受けられないので、それまでにパワーを蓄えねば。
あ、また研修先を探さないとダメなんだーーーーー(涙)


08.26.2004記(06.26.2008改)

一足早い学期末と企業研修

先週の火曜日、7月1日にに待ちに待っていた企業研修が始まった。
この研修、去年の10月だったか?の時点ですでに決定したいたもので、この研修受け入れ先が見つかるまでには本当に時間も手間もかかった。
日本の不況も大変だけど、ドイツも不況の真っ只中。
そのせいで、研修生受け入れに消極的な企業も多いらしい。
この研修先が決まったときには本当にホッとした。
だって、わたしの大学では企業研修を終えていないことにはVordiplom試験(大学の基礎過程終了試験)を受けさせてもらえず、ということは本過程にも進めないから。

でも、この研修が決まった時点で問題が1つ。
研修は7月1日から始まるけれど、大学は7月の第3週まで続くのだ…。
なんとか大学側と交渉し、6月末までに課題をすべて提出することで今学期の単位はどうにかなることになった。
春休み明けの4月にこの交渉をした時には「多分、6月辺りは大変なことになってるんだろうなー…」とか他人事のように思っていたけれど、これが本当に大変なことだった…。

次から次へと課題の締め切りがやって来て、ちょっとしたことで、プツンと切れてみて、世界の終わりを予感したり…。
どーんと積まれた課題の製図やらレポートの資料やらを前に(気分的に)燃え尽き、1日何もしない、なんてことが数回あった。
とくに6月末には、バイト先で異常に気を使う状況に陥ったせいもあって、「もうヤダ…」と現実逃避に勤しんでいた。

実はいろいろ考えた結果、今年の夏にVordiplom試験を受けることは諦めたんだけど、今更ながら、来年早々にVordiplom試験を延ばした自分の判断の正しさに自画自賛してたり。
この状況で、夏にVordiplomをする、なんてことに決めていたら、忙しさのあまり、もっと情緒不安定になっていただろう…。
第5学期に取得できる単位については、秘書課に問い合わせた結果、最終試験の単位として認められるとのこと。
いくつかの課題はVordiplomまでに提出すればよいという話なんだけど、油断していると来年早々、それこそヒドイ目にあうので気を引き締めていかないと。
結局、6月30日の私にとって今学期最後の日早朝まで課題をいじって、どうにか終わらせ、次の日の朝から早速研修先に通うことになった。

今回、私がやる研修というのはMashinenbaupraktikumというヤツで、本来ならばMashinenbau(マシーネンバオ=機械工学)を 後々に勉強する予定の高校を卒業したばっかりの人たちのもので、私みたいにもうVordiplom前で、しかもデザイン専攻学生のためではない…らしい。
まあ、うちの大学には「Masinenbaupraktikumをすること!」という規則があるので、企業側にも私にとっても「デザイン学生だから」という理由で特に問題は発生しないんだけど。

ただねー。ただねー…。
これが見事なばかりにまわりは若い若ーい男の子ばっかり。
私の研修先は割と大きな企業で、職業訓練中の職人見習の子達だけのために特別な部門があって、そこを私たち研修生も毎日ウロウロしている。
職人見習の子達は大体20人か30人くらいなんだけど、そのうち女の子は1人だけ。
そして研修生は私を含めて7人で、そのうち女の子は私以外にあと1人。
それはそれはピチピチの男の子たちに囲まれて、両手両足に花?状態だったりする。

初日に、企業側から新品の作業企業ロゴ入りTシャツ、ズボン、ジャケットに安全靴までもらい、で、今、研修生たちは何をやってるか、というと文鎮作ってます
研修生全員、こういった機械工の機械を使用したことが全くなく(私は一応、大学で多少使ったことはあるけど、たいした知識も無いので…)、U字型スチールをヤスリで削ることから研修は開始。
…スチールをヤスリで5ミリ削れって…。1日半かけて削った上に、手に水ぶくれが出来たけど、まだ終わってません…。
機械でやったら、5分で終わるんだけどなー。でも、Vorpraktikumって本当に基本中の基本のヤスリの持ち方、ノギスの使い方から始まるのね…。

研修は朝の7時から始まるので、朝起きるのが辛いといえば辛いんだけど、家の近所だし、3時過ぎにはもう家に帰れるし。
おまけに大学の課題みたいに家でも続きをしなきゃ、なんてことにはならないから、そういう意味でのストレスはない。
ただ問題があるとしたら、工房の親方がすごい地元の方言をしゃべることくらいかな…?
ドイツに住んでほぼ3年だけど、ここまですごいのははじめてかも…、というくらいスゴイ。
タダでさえも私のドイツ語理解力はヤバイのに、半分くらい何を言ってるのか理解できず、もう1度質問すること度々。
でも、他の地元出身の研修生いわく、「あの親方のなまりかたはマシなほう」らしい…。
…私も日本ではかなりキツイ方言をしゃべるから人のことは言えないか…。

そんなこんなで、今のところは結構快適に通っているんだけど、後々どうなることやら…。
せいぜいクビにならないようにがんばります、ハイ。


07.06.2003記(06.26.2008改)

第4学期とVordiplom(フォアディプロム=中間試験)

先週の火曜日から第4学期(4. Semester)が始まった。
基本的には、ゼミに参加して、単位をもらうことが目的だから、前の第3学期と対して変わらない。
でも、私たちにとってはちょっとだけ雰囲気の違う。
なぜかというと、この第4学期終了後に基礎過程(Grundstudium)修了試験であるVordiplom試験(中間試験といったらよいのか…)を受けてもいいことになっているから。

まあ、大学によっていろいろ差があるだろうけど、大体の場合、基礎過程ではその専攻に関する一般的なこと、広範囲なことを一通り勉強して、 Vordiplom試験で締めくくり、その後の本過程(Hauptstudium)では、より自分の興味のあることに的を絞って、勉強することができる、 らしい。
私が知ってる限りでは、こんな感じ。

うちのクラスは、すでに職業訓練(Ausbildung=高校卒業後、ある職業を習得するために3年間勉強する制度。3年間の締めくくりには、修了試験が ある)を終えてから入学してきた学生が他の年よりも多いせいか、入学早々のおととしの段階から、このドイツ人でさえも分かりにくいVordiplom試験 の仕組みに対して、教授を捕まえては質問攻めにしている光景がよく見られた。

私もとんでもないドイツ語能力の割には、今までで落とした単位はまだないし、今学期を修了すれば、他の同級生と同様にVordiplom試験を受けること が出来る資格を得られるハズ…。 実は、自慢にならないけど、実技の成績はともかく、理論系の成績はヒドイもんで、私がもし、ドイツ人だったら落としていた単位が、知ってるだけで2つ…。 この2つは、「仕方ないよね。外国人だし。まあ、まじめに授業に出てくるから」というわけで、教授のお情けで通してもらったという…。

でもでも、ここで問題が1つ出てきた。
この問題というのが、Praktikum(企業研修)。

私の大学では、Vordiplom試験前に11週間の企業研修をしてきて、それを証明しないことには試験自体を受けさせてもらえない。
去年の3月ごろからの約半年間、必死になって研修先を探し、大学の工房で研修気分を味わわせてもらったりなどなど、いろいろあったけど、去年の10月くらいにある企業に11週間の研修を受け入れてもらえることになった。

私としては、この春休みに研修を終わらせたかったんだけど、受け入れ先企業に「春休み期間には、あなたの望む研修を提供できません。夏休みにならそれができます」と言われた以上、他にどうしようもない。
だいたい、何社にも断られつづける仲で、やっと承諾の返事をくれる企業にめぐり合えたことに感謝しないと。

でも、この企業研修が今年の7月から9月の半ばまで。
Vordiplom試験の準備期間が、8月半ばから10月頭まで。

うちの大学の場合、Vordiplom試験の際の特別な筆記試験等はなく、自分で1つのテーマを探し、そのテーマに沿い、コンセプトを固め、モデルを作っ て、大学側に作品モデルとドキュメントファイルを提出、そして、お客さんを呼んでのプレゼンで締めくくる。(ちなみに、Vordiplom用の筆記試験が 存在しないのではなく、基礎過程と並行する形でVordiplomに必要な試験もぼちぼち行われていくシステムを、うちの学校は採用している)

そんなわけで、企業研修と平行して、Vordiplom試験の準備をすることはまず、不可能との話。
モデルは大学の工房でじゃないと作れないけど、工房が開いている時間、私は研修してないといけないから。

この夏のVordiplom試験を逃すと次の機会は来年2月くらい。
Vordiplom試験が半年遅れるってことは、大学卒業も半年、遅れるってこと?
「大学を(単位取得可能な範囲での)最短期間で卒業しなきゃならないんです~!」とまで思いつめてはいないけど、私は第5学期に当たる、今年の10月から来年の2月までの期間、なにをしていたらいいんだろう…?

Vordiplom試験合格前に取った単位(つまり、第5学期に取る単位)が、次の本過程、もしくは卒業に必要な単位として認められれば、別に問題はないんだけど、そのへんがよく分からない。

まあ、単位の話はうちの専攻直属の秘書さんに訊けばいいことなんだけど、実は先週、彼女をとっ捕まえて、30分間、Vordiplom試験に関する質問づけにしてやったので、また訊きにいったら、嫌がられそうだな~。

でも、すっきりしないことをあれこれ1人で考えているのも嫌なので、また秘書さんに訊きにいこう。


(追記 : ドイツの大学では交渉次第で例外が認められることが多いです。2006年くらい?からドイツ中の大学の仕組み自体が見直され、カリキュラムの変更が毎学期のように行われているみたいなので、分からないことは学生課や秘書さんにしつこく尋ねるくらいしないと、「知らなかった」と言っても学生の責任にされることがほとんどなので、注意してください)


5.04.2003記(06.26.2008改)

学期末

来週いっぱいで、やっと冬学期が終了する。
自分としては、「なんとか無事に終わりそう…」という感じ。
去年の10月からの5ヶ月間、思い起こせば、毎日課題に苦しめられたことや、毎日、毎日課題に苦しめられたことや、毎日、毎日、毎日課題に苦しめられたことなど、それはそれはさわやかな思い出がいっぱい。

プレゼンまで後3週間もないのに、課題案の決定段階で教授から2度ダメ出しが出て、「もう、間に合わないかもしれない…」と半泣きになりつつ、すべて一からやり直したとか。
学校で丸一日かけて作ったデータをCDに焼いて家に持ち帰ったところ、うっかりオーディオCDで焼いてしまったため、全く家で使えなかったとか。
通学中の電車内で居眠りをこいてたら、突然、見知らぬおねーちゃんに手を握られて、肝が縮み上がる思いで飛び起きたら、学校のある駅を通り越して終点まで来てしまったことに気が付いたとか… (←親切なおねーちゃんだったよーだ。私はてっきりヤバイ人かと…。すまないっす)。

ようがんばったなー。私…。ううう…(涙)

これは私だけではなく、今学期、私と同じ指導教授の下で課題をやってた同級生のほぼ全員がそう思っているハズ。
学期内の課題を締めくくるイベントといえば、来週の学科内プレゼンテーションなんだけど、うちのプロジェクト参加メンバーにとっては、昨日が山場だった。
なぜかというと、昨日、プレゼンで使うボードとドキュメントを印刷する予定だったから。
今日会った同級生も、「もうどうでもいい…。どうとでもなる。早く自由になりたい…」とか疲れた顔で言っていた。
とりあえず、印刷物が予定通り終われば、後はプレゼンまでゆっくり準備できる。

でも、印刷してる時には当然のようにトラブルが起こる。(モデルを作ってる時とか、普通、トラブルは起こらない)

いつものように、昨日も突然コンピュータがフリーズすること、何度か。データをプリンターに送信したのに、プリンターが「データを受信していない」と言い張りやがったこと、さらに数回。
そのくせ、突然、印刷を開始し、同じページを刷ってくれること、数えたくないほど。
朝の9時から印刷を開始して、終わったのが夕方6時。

…A3とA4版の、合計でたった50枚の印刷物だったってのに。
しかも、画面で見て設定したのと印刷したのとでは、色が全く違うし(涙)
この辺は、ちゃんとした人は(普通の人なら、かな)試し刷りして本刷りに備えるとか、また設定を変えて刷りなおすとかするんだろうけど、お金もかかるし、なにより、めんどくさい…。

そんなわけで、昨日は1日、みんなプレゼンの準備でくそ忙しいこの時期に、うちのグループ3人で学校内で数少ない(これだけトラブルが続発しても)まともなプリンターを占領したもんだから、まわりにもものすごいストレスを与えていた…らしい。
…もう、何度も印刷のときに痛い目にあってるから、2週間以上前から担当の先生に、「この日に印刷をしたいんで、プリンターを優先的に使わせてくださ い」って、何度も頼んでおいたのが幸いして、本来はプリンターの優先使用なんていうことはできないところを、先生にかなり配慮してもらえたんだけど、それ でも、他の人から「誰がそんな勝手な(予約制なんていう)規則を作ったんだ!」とか嫌味を言われたりも。くううう…。

ふう。それはそれは長い戦いだった…。

印刷が終わった今、不謹慎な話、提出物さえ期限内に出せれば、もうあとはどうとでもなる、という間違った思い込みがある私。

ボードもドキュメントもプレゼンのために作るものなんだけど、いつのまにか、せっかく作ったボードとドキュメントがもったいないからプレゼンでもやってやるか、という何かがちょっと(かなり?)ズレてきてる状態。

…ダメ人間なわたし。

でも、今日は何日かぶりに、ようやくゆっくり眠れた。
本当は、まだドキュメントの製本をしなきゃならないんだけど、どういうわけか、やるドラをやってる…(4年くらい前に買ったヤツ。ちょっと古いですなー)。

すでに気分は春休み。
あ、その前にプレゼンか…。


2.13.2003記(06.26.2008改)

第3学期

大学で勉強し始めて、1年以上が過ぎた。
ドイツの大学では、日本の大学のように、全員4年で卒業しなければならないという決まりも、1年生、2年生などという学年という概念があまりない。
ただ、大学に入学した学期から何学期目にいるか、とはよく尋ねられる。
こっちでは1年に2学期あり、すでに最初の1年が終わった私は現在、第3学期目(3. Semester=第3ゼメスター。ちなみに、来年4月からは第4ゼメスター、10月には第5ゼメスターということになる)。

これからドイツの大学で勉強したい人を脅すわけではないけれど、去年、大学で勉強し始めたときは、本当に悲惨な状態だった。

語学学校の授業はちゃんと理解できていたから(と、今でも信じている…)、大学でドイツ人と同じように勉強する、ということを甘く見ていたのだ。
始まってみれば、クラスに私の私以外の外国人は居らず、他のクラスメートが出来て当然、小学生でも出来るような、「話を聞く、理解する」ことが出来ない自分に気が付いた。
語学学校では、当然のことながら、先生以外は皆ドイツ語を母国語としない外国人。
習得の速い遅いはあったけれど、日常のことやドイツ語の勉強のことなど、抱えている問題はよく似ていて、友達もいたし、ストレスと苦労はあったものの、楽しいと思える日が多かった。

去年1年は、友達も出来ず、授業も十分理解できないなか、学校に通うのがやっとだった。
ただでさえも常に疎外感を感じているのに、そのなかで1日でも学校を休むと、本当に自分の居場所がなくなってしまうかも…、とかなりオーバーな恐怖心があったから。
いつもながら、小心者な私…。

そんな私の去年の合言葉は、「2年目からは(課題がちょっとずつ)楽になる、楽になる、楽になる…(延々と続く…)」。
まるで自己催眠のように、繰り返し、繰り返し、自分に言い聞かせて、その上、友人たちにも「頼むから、来年からは楽になるって言ってー!!」と無理やり言わせていたり。

そしてやっと迎えた第3学期…。

何で、去年よりも大変なんだ…?うそつきーーーーー(泣)

今学期、私のクラスは4人の教授のプロジェクトに分かれ、それぞれ別々に作業していたんだけど、どうも、4つのプロジェクトのうち、私が選択したプロジェクトが一番大変だったらしい…。

10月の末に始まったこの課題。先週の金曜日の課題発表までの6~7週間、毎週2回ほど、なんらかの締め切りがあり、絶えず、締め切りまでの時間に圧迫され続けた。
私だけではなく、ドイツ人の同級生まで、「…もうやだ…。時間がないのに、やることがいっぱいありすぎて、なにから手をつけていいか…」と青い顔をしながら、朦朧と課題に取り組んだ日々。

結局、5人いたプロジェクト参加メンバーのうち、2人が締め切りに間に合わず、どうにか締め切りに間に合った残りの3人(私も一応この中に入る)も終わったころにはヨロヨロだった。

もっと時間があったならば、もうすこし手を加えられたところもあっただろうけど、とにかく、どうにか期限までに忙しかった課題を終わらせることが出来たことは意味のあることだと思う。

課題が終わった後、「これで、たいていの事は絶えられそう…」と言い合った私たち。

来週から、3週間のクリスマス休みが始まる。
どこか遊びに行く暇も予定もお金もないし、次の課題やらレポートやらに備えないといけないし。
多分、たまにバイト行って、家で本読んだり、部屋を片付けたりしてるんだろうなー。
とくにクリスマスと正月は、10月からはじめた新しいバイト先でおすしを売ってそうだ…。

…ふ、…ふふん。私は家族で過ごすための日であるクリスマスと正月に、幸せを売るんだー。(←やけっぱち


12.17.2002 記(06.26.2008改)

研修中の日常

現在(2002年8月ごろの話)、私はうちの大学内の工房にて1ヶ月予定の研修中である。

この研修の目的は、ゆくゆく自分でデザインした家具などを自分で作れるようになるために、機械の操作を覚えること。
私の場合、自分の作りたいものを先生にアドバイスしてもらって、工房内の機会を使用し、作っている。
多分、普通の企業で研修したら、こんなおいしい思いをさせてもらえないんだろうなー、とは思う。

うちの工房では、2人の大学常勤講師と1人の工房専属の先生が、学生の指導をすべく、働いている。
この講師の先生は、2人とも身長180センチ以上、体重も多分100キロを越す巨体で、この2人が同時に工房内をウロウロしているのを見ると、室温20度でも体感温度35度くらいの迫力がある。
しかも2人とも、かなり個性的なので、1日中いっしょにいると、言動に振り回され、精神的に疲労すること多し…。

しかし、幸運にも、私の指導を引き受けてくれた先生は、(唯一、工房内で常識人な)工房専属の先生。
なので、最初の2週間は、研修はかなり順調で、正直楽しかった。

が、今週に入って、この工房専属の先生が突然、1週間休暇を取ってしまい、この先生の代わりに、常勤講師2人組の片割れ先生が私の世話をすることになった。

…実は、私、この先生とはかなり相性が悪い、と思っていたりする…。
と、いうのも、この先生、ドイツ語理解能力に問題があるようで…(ドイツ人なんだけど…)。
私自身、ドイツ語理解に大きな問題を抱えているので、この先生と私が会話することになると、相互理解のために、普通の人との会話に使うエネルギーの3倍以上は必要となる。

例えば、この先生に何か質問すると、必ずと言っていいほど質問したこととは違う内容の答えが返ってくる。
しかも、話好きで、1度話し始めると5分は誰も止められない勢いでしゃべって、しゃべって、しゃべりまくる。
道具の場所ひとつ聞くだけで、①その道具の種類、②さまざまな工業規格、そして、③値段と購入可能な場所まで、「おじちゃんの豆知識」的なことが語られてしまう。
まあ、勉強になると言えば、なるような気もするけど、大抵のケースにおいて、最初の質問である、「道具の場所」については語られない。
で、もう1度「道具の場所」について尋ねると、さっきの①②③を繰り返される。

私のドイツ語がまずい、ということもあるんだけど、正しい解答を得るまでに、いつもいつも膨大な時間がかかるので、お互いにぐったりすること多し。

ドイツ人の同級生はおろか、掃除のおばちゃんにまでも、「あの先生ねー。骨が折れるわねー」とか言われてるようだから、かなり筋金入りな模様…。
あのー…。私、毎日、そのおじちゃんと2人きりで8時間、作業してるんですけど…。

まあ、企業にもこんな人はたくさんいるだろうけど、最初についていた先生との差を感じずにはいられず…。
そんなわけで、今週1週間は、やたらと濃い1週間だった。

来週には、最初の先生が戻ってくるはずなんだけど、なんでも、先週末、突然病気になったとの話。
後1週間の予定の研修にも、なんだか暗雲が…。

そうそう。
ようやく、例のHeissdrahtschneider(ハイスドラートシュナイダー)を仕上げ、現在はアルミ製のテレビ棚を制作中!
予定していた机は、木工の先生が休暇に入ってしまい、制作不能になってしまったので。


07.27.2002記(06.26.2008改)

夏休みの過ごし方

今日、ようやく私にも夏休みがやってきた。

本当は、先週の月曜日から授業のない期間(つまり夏休み)に入ってたんだけど、実は今日、筆記試験があったので、先週1週間はこの試験に向けて勉強する必要があったのだ。
そんなこんなで、「夏休みだ」という実感のない1週間を経て、ようやく今日の筆記試験。
出来は、というと…。…まあ、やるだけやったよ…、勘弁して…、という感じ(なんやねん、それ)。
試験中、私がうんうん唸りながら、2、3文書いている間に、他の同級生たちは1ページ、2ページくらい軽く回答していたし(汗)

この試験、もしくは授業のために、みんな、学校から指定された本を1冊読む必要があったんだけど、この本がかーなーりー、ホラーだった。
ドイツ人でさえも、「なんだか、書いてあることがややこしくって、よく分からないときがある」とか言ったてたのに、私にいたっては、「半泣きで読んだのに、分からなかったところ」が全体の半分以上を占めていた。

いくらなんでも、これじゃシャレならんので、ドイツ人の友人に説明してもらい、どうにか今日の試験と、それに先立ったレポートの提出に備えて。

先週の月曜日に私のレポート発表があって、今日が同じ授業の筆記試験。
この2つが、3月から重くのしかかっていたため、今日、試験が終わった後の開放感は格別だった。

結果はどうあれ、終わりは終わり。
これで、この4ヶ月間、常に感じていた「何をするより、勉強」という圧迫から少しは開放された感がある。
そんなわけで、家に帰ってきてまず、3時間昼寝
こんなにゆっくり昼寝できるなんて…、とかなり幸せを感じた私は、まるでノビタくんのよーだ。

で、明日から何をするか、というと。
なんのことはない。毎日、学校へ。
実は、先週の火曜日から大学の工房で研修をさせてもらっているのだ。

今、私が作っているのはHeissdrahtschneider(ハイス・ドラートシュナイダー。細い針金に熱を伝わらせて、発泡スチロールを溶かし切るもの。モデル作りに欠かせない)。
これを作ることになったのは、工房の先生からの提案で、私はてっきり、大学の備品の作るんだと思ってたんだけど…。
実は、このHeissdrahtschneider、私の私物になるよう。
研修第1日目に、自分が言ったこと(「Heissdrahtschneiderを作れ」ってこと)をすっかり忘れていた先生は、私に、「何、作りたい?家具とかでもいいよー。そういや、ベッド作った学生もいるけど、ベッド、つくりたい?」と尋ねられ、かなりびびった。

というのも、この間、散々な目にあった企業研修の面接の件を数人の友人に話したところ、私のケースはまだマシな方だったことが発覚したのだ。

同じ科の韓国人の女の子が研修した企業では、彼女は大型機械の操縦を学ぶためにその企業へ行ったにも関わらず、機械に触ることはおろか、機械を見せてもらうこともなく、2ヶ月間毎日、 掃除とゴミの始末をしていたそうだ。
彼女いわく、「言葉が十分にできないからって、機械に触らせてもらえないのは分かるけど、見せてももらえなかったのには腹がたった。もうあそこには2度と行かない」と言っていた。

ドイツ国内で研修生をしている日本人の友人も、「研修生って、企業にとっては『ただでこき使える従業員』的な存在だから。掃除もゴミ捨ても誰かがしなければならないことだし」と言っていて、「なるほどな。人生、そう甘くはないしな…」と納得したばかりだった。

そんなこんなで、気を引き締めて行った初日に、例のベッド発言。
でも、逆に今、めちゃめちゃやる気満々な私。

Heissdrahtschneiderを出来るだけ早く作り終えて、次に勉強机を作る予定。
勉強机を持っているには持っているんだけど、最近、馬鹿でかいモニターを購入したばっかで、勉強机というより、パソコン机になってしまっているので。

でも、好きにさせてもらうことに慣れてしまうと、来年の2月3月にやる予定の本当の「企業研修」の時にめちゃめちゃ苦労しそう…。
(うちの大学での研修は、1回のみなので。基礎過程終了試験までに、まだ私は2ヶ月、よそで研修をしなければならない)


07.16.2002記(06.26.2008改)

Praktikum・その後

3月からついこの間までの4ヶ月間、ずっとPraktikum(企業研修)の受け入れ先を探していた。
まだ多少、ドイツ語力に不安は残るけど、今夏に最低でも1ヶ月はやるぞー、と結構いろんなところに手紙と願書(?)を出してみた。

で、どうだったか、というと、全滅でした…。

前にも書いたように、ヨーロッパでは多くの会社が工場を閉鎖して、夏休みを取る、ということが夏に研修先が見つからない大きな理由みたいだけど、そのほかの理由として、あまり状態の良くない最近のドイツの景気もあるらしい。
そんなわけで、私と同じように研修先を探していたクラスの子達も結構苦労していた。

なんで今夏に最低1ヶ月の企業研修を決意していたか、というのは、実はVordiplom(基礎過程終了試験)のためである。
大体どの大学でも、この試験は第4ゼメスター終了後(入学から2年後)に受験できるものであり、うちの学校では、その試験の受験条件として、3ヶ月間の企業研修終了がある。
私は現在、第2ゼメスターの終わりで、順調にいけば、今から1年後にこの試験を受けることになる。
あくまで、”順調にいけば”なんだけど…。

つまり、まーったく研修をしていない私は、この1年以内に義務である3ヶ月の研修を終える必要があり、この夏休みを逃すと、研修をできる期間は来年春の休みのみ。
しかし、その春休みは2ヶ月しかない。

と、いうわけで、結構必死になって研修先を探していた。
…別に、Vordiplomは、「猫もしゃくしも4ゼメスター目に受けろ!」っていう試験でもないから、5ゼメ目とかに受けてもいいんだけど…。でも、面倒なこと を先延ばしにするのもなんなので。

しかし、前述したように、結構たくさん願書を送った割には、全滅した。
実は、この件を学校の先生に相談したところ、「どうしても見つからなかったら、うちの学校の工房で研修させてあげるから」と言われていたので、本当に八方ふさがり なわけでもなかったんだけど、やっぱり、ちゃんとものを生産している工場の方がいい、ということなので、つい先日まで、願書を送る作業は続けられていた。

「もうこりゃ、ダメだなー。さっ、学校で研修させてもらおう」と思った矢先に、とある企業から「面接にきてくれ」という電話をもらった。

その面接が、先週の金曜日。
内心、面接の連絡が入ったのは嬉しかったのだけど、今まで散々断られ続けたので、かなり気を引き締めていった。
「ひょっとしたら、いっぱいいる研修志願者の中から選ばれるのかもしれないから、過剰な期待はしないおこう」って。

…自分でも、この心がけが功を奏するとは思いもよらなかった…。

結果から言うと、この企業、最初から私を採る気なんてなかったよーだった…
でも、なんで連絡を寄越したか、というと、この会社とうちの大学教授の1人となんらかのつながりがあり、どうも、この会社は、私が「彼の紹介で願書を出した」と思ったらしい。

面接では、やたらと丁寧な管理部門のおっさんに、かーなーりー失礼なことを言われた…。

「あんたは、ドイツ語がしゃべれないけど、語学学校には通っているのか?」とか、「あんたと話すのは、ものすごい努力が要るけど、私以外の従業員はこんな 努力をしないから」とか、「うちの企業も景気が悪くって、研修生なんて受け入れてないんだけど、あの教授が言うなら…」などなど。
「ただ、そばで見てるだけなら、研修生として採ってやってもいいけど、機械に触るのは禁止だし、給料も出さないよ」とかも言ってたなー。

言っちゃーなんだが、私はその大学教授を知らないし、給料をもらう気なんてこれっぽっちもなかった。

まあ、当たってるところもあるんだけど(特にドイツ語力に関しては…)、ここまで「どうにか向こう(私側から)断らせよう」って態度が見え見えだとなー。
「景気が悪いから、研修生を採ってない」って、労働局に「研修生募集」の広告を出してたから、願書を送ったんですけど…。
向こうは、どうにか丸くことをおさめたかったようだけど、それならはっきり、「うちでは、あんたを研修生として採用できません」って言ってくれた方が、こっちとしてもすっきりしたと思う。

はっきり言って、私が願書を出した他の企業みたいに、手紙で断ってもらった方が、時間の節約になった。

この日は、このやたらと丁寧で(私にとっては)失礼な親父のせいで、めちゃめちゃ落ち込み、1日台無しだったから…。
この話を、うちのドイツ人の同居人にしたら、「そんなケツの穴野郎のことは、すぐ忘れろ」とか言われて、どうにか回復したけれど。

やっぱり、生産活動している企業として、私のように言葉にハンディのある奴は、時間の無駄と思われても仕方がないのだけど、毎日通学(勤?)往復3時間かけて、「見てるだけ」っていうのは、いくらなんでも得るものが少なすぎる。

この親父には、「(例の)教授と相談してから、うちの電話しろ」と言われたけれど、翌週の月曜日にすぐ、別の先生のところに行き、大学の工房での研修の期間を決定したことは言うまでもない。
電話にかかる費用と時間がもったいないから、あの親父には連絡する気もないし。

「いつか有名なデザイナーになって、ゲ○川に復讐してやるーーーーー!!」と思っていたりする…。

しかし、最近の口癖が、「いつか復讐してやる」になってる私。
客観的にこの台詞を聞いたら、きっと危ない奴だと思われるよね…。

そんなわけで、すでに来週からうちの学校での研修が始まることになりましたー。


(追記 : 6年後の今、読み返してみれば、まあこんなこともあったなー、くらいの話です。後に本当によいところで研修させてもらえることになったので、この件に関して後悔は全くしていないのですが、ほかのみんなに話を聞くと、中小企業での研修は多かれ少なかれ、似たようなトラブルがあるみたいです)


07.05.2002記(06.26.2008改)

怒涛のプレゼン

別に本当に怒涛だったわけではないんだけど、今回のプレゼンは気分的にそうだった…。
ここ数日、鼻風邪もちの私。

原因は比較的暑い日に窓を開けて寝たら、夜中に結構冷え込んだで寒かったことが原因らしい…。
これが結構、不愉快なもので、寝ている最中に鼻が詰まって、夜中に何度も目がさめる、ということを繰り返している。

おまけに、プレゼンの前の晩は蚊まで出て、やっと鼻がすっきりして眠りに落ちる瞬間にヤツは私の耳の周りに飛んできて、それで目が覚めることが、5回はあった。

寝不足、鼻がぐずる、でかなりヨロヨロになりながらプレゼン開始の10分前には大学に着いて、準備して。

実は、このために自分で設計した製品モデルが必要だったんだけど、これがどう考えてもプレゼンまでに完成しそうにない気配だった。
おまけに、日本でも使ったことのない機械を使用しての制作だから、遅遅として進まなくって。
時間に終われていると、つまらないことで失敗したりもするし。

まず、自分のモデルを製図して、それを元に学校の工場にいる講師の先生と相談。その後、先生に助けてもらったりして各々で制作を進めていくんだけど…。
大体、私がモデルを作らねばならないときには、私の同級生みんなもモデルを作らねばならならず、みんな、その先生の助言が必要となる。
そうすると、先生はなかなか捕まらず、待ちくたびれて、自分でどうにかしようとすると、必ずと言っていいほど失敗する、ということを繰り返した…。

結局、私だけでなく、うちのグループ全員のモデルが完成しないまま、プレゼンを向かえてしまった。

しかし、いつものごとく教授が表われない…。
 プレゼン開始予定時刻の15分後、やっと1人が表われ、その10分後、もう1人。
待てど暮らせど来ない教授たちに痺れをきらせた何人かがカフェにコーヒーを飲みに行ってしまい、彼らを待つこと更に5分。

やっと始まったプレゼンだったけど、うちのグループの発表が終わり、もう1つの方が発表することになった時点でプレゼン用の画像を投影する投影機の準備が全くされていなくて、更に待つこと20分。

そんなこんなでだらだらしているうちに、教授の1人が「今日、12時から打ち合わせがあるんだよね。残りは午後13時からにして」と言い出した。
なんだかイヤな予感がしたけど、仕方ないので昼食後13時に再び、プレゼン会場へ。

…予感的中の45分遅れで、教授たちはやってくる…。
そしてその後、予感的中の機械トラブルで30分遅れ、プレゼンが終わったのは15時だった。

…ああ、彼らはどうしてこんなに効率の悪い働き方をするんだろう…?

でも不思議なことに、教授も学生の手際の悪さに腹を立てたりしない。
日本の大学では、自分たちが1時間遅刻してこようが、彼らが来た時点で、プレゼンする学生の全員がそろってないと、教授たちは機嫌がめちゃめちゃ悪くなったものだが…。

これがドイツ標準なんだろうか…?

鼻風邪持ちで、寝不足で、自分のモデル、ボロボロで、その上、結構イイ感じで接触できてた企業から研修を断られ、おまけにどうしても今週中に書かなきゃい けないメールがあったのに、Internetまで壊れて(プロヴァイダー側の問題で)、「なんで私はドイツでこんな苦労してるんだ?」と、めちゃ落ち込んでしまった。

でも、悩みが2日以上長続きしない体質の私は、早速復活して、今こうしてコンピュータの前に座ってるんだけど。

私の場合、一旦落ち込むと限りなく沈み込むけど、悩むのに疲れると「今、悩んでても仕方ないよなー。なるようになるさー」と一気に回復する。
基本的にはお気楽人間なので…。

結局、このモデルは水曜日のプレゼンまでにうちのグループ全員が間に合わず、来週の木曜日には完成させて、プチプレゼンということになった。
…私は、来週の木曜日でも間に合うかどうかさえあやしい…。

 まあでも、来週の1週間を乗り切れば、あとはデザイン理論の研究発表をするだけ(のハズ)。
つーか、この研究発表のために(わけのわからない)本を100ページ以上読まなければならないんだけど。
あと、Power Pointも使えって言われてるし。
あのー、私、2方向にしか回らない機械のレバーをいつも目標とは反対方向に回して、モデルを壊してるようなサルなんですけど…。
サルにPower Point(もしくはコンピュータ)って、かなり最悪な組み合わせだと思うのは、私の気のせいじゃないハズ…。


06.01.2002 記(06.26.2008改)

Praktikum(プラクティクム=企業研修)

どこかで書いたと思うけど、ドイツでデザイン系の科目を大学で勉強する場合、入学前に3ヶ月か6ヶ月の企業研修が入学の条件になっている学校が多い。
多いというより、ほとんどかもしれない。

うちの学校は、入学前の企業研修(Vorpraktikum)が絶対的な入学前提条件ではない、数少ない学校のうちの1つ。
でも、Vordiplom(フォアディプロム)試験(基礎過程<Grundstudium)終了の際の試験。入学後、2年から3年後にある)までに、3ヶ月ほどの企業研修を終えねばならない。

うちの同級生の多くは、もうすでに企業研修を終えている。
なぜかというと、Vorpraktikumを入学条件とする学校が多いため、大学入学以前に企業研修をしておけば、それだけ受験できる学校が増えるし、入学後、忙しい間をぬって、研修をしなくていいから、ということらしい。
ちなみに、Vorpraktikumとして要求される企業研修は、ドイツでは高校生、中学生もやっているような一般的なものなので、給料はもらえないことが多い。

だから、うちの同級生の9割が高校を卒業してから1年後に大学に入学している。(多分、普通の大学では、高校卒業と同時に大学での勉強を開始する人が多いと思う)

私は少数派の、「まだ企業研修を終えてない」方。
だから、今、この夏に企業研修をすべく、受入先を探しているんだけど…。

これが、なかなか見つからない。
原因は、どうもヨーロッパ的な会社機能にあるらしい。

ヨーロッパでは、夏に多くの人が何週間単位で休暇を取る。
それにあわせてか、会社や工場も1ヶ月間、閉鎖、というところが結構あるのだ。
従って、夏には研修生を受け入れない(受け入れられない)企業がかなりある。

でも、大学の基礎過程計画では、来年の夏にVordiplomがやってくる。
私の場合、言葉の問題もあって、みんなと同じように進むとは限らないけど、どっちみちせねばならない企業研修は、早めに済ませてしまいたいのが本心。

「今夏じゃなー…、ドイツ語もまだまだだし…」とか言いつつ、結構消極的な姿勢で探しているから、見つからないのかも…。

「はやく決まってくれーーー」と言いながら、今日もある会社宛ての願書を書いていたりする…。


05.23.2002記(06.26.2008改)

友達作り…

実は、これが今、私の一番大きな課題だったりする…。

はっきり言うと、私にはクラス内にまだ「友達」と呼べる存在がなかったりする。
学校の課題は、言葉ができなくったって、どうにかなる。
ドイツ語が分からなければ、あとで誰かにきいたりして完成にもって行けるから。

でも、友達づくりだけは、そうもいかない。
これが、現在、ストレスの1つになっている。
そもそも、友達づくりがこんなに難しくって、労力のいるものだなんて、考えたこともなかった。
学校に行って、誰かに話しかければ、友達なんて簡単にできるものだと思っていたから。実際、そうだったし。

はた、と気づけばクラスの人達はみんな仲良くなっていて、自分だけがなんだか取り残されているような感じになっていた。
これはヤバイと思って、いろいろ話しかけてみたが、どうも会話が長続きしないのである。
最初は、まだまだ相手の言っていることがよく聞き取れなかったせいもあるんだけど、慣れてきた最近でも、現状(友人無しの)現状は変わらない。

なぜか?

自分が日本で友人と話す時、どんなことを話していたかよく考えてみたら、昨日見たテレビのことなど、悪く言えばくだらないことだったりした。
要するに、何のテーマも無い、日常のことを毎日飽きることなく、しゃべっていた。
そう、くだらないこと…。
それが今の私にはできないのである…(涙)
私が現在楽しみにしているテレビ番組が、Sex and the cityやAlly Macbealのような一般的な若者向け番組ではなく、ドラゴン○ールZだということを置いておいても、決定的に語彙量が足りないので、ドイツ人のしかも 若い学生同士の会話についていけないのである。

しかも、私の悪い癖というかなんというかで、いつもなんとか面白いことを言おう!と気合を入れすぎて、決定的なドイツ語力の不足から志半ばで事切れるてしまう…。

分かっている…。
 
大学生活に支障をきたす程度の語学力で、ドイツ人から笑いを取ることがどんなに無謀なことか…。 でもでも、この三重県出身という中途半端に関西よりな血が、中途半端に作用してしまうのだ…。(三重は愛知、岐阜と並んで東海地方だけど、他の2県と違って、中部地方には入らない。奈良、大阪と同じ近畿地方である。ちょっと、孤独なポジションだったりする…)

「これは、努力と根性の長期戦だなー」とか「いいや、まだ1ゼメ目だし。ぼちぼち行こう…」とか思っているんだけど、機嫌の悪い時、やることがいっぱいあって、ストレスが溜まっている時なんかはそうもいかない。

ただでさえもイライラしている状態で、なにか自分に都合のよくないこと(例えば、ドイツ語が小さく小さく印刷してあるプリントをどーんと渡されて、「来週までに読んどけ」って言われたりとか)が起きると、ムショーに腹が立って「誰の顔見て、そんな寝ボケたことゆうとるんじゃー!!私はドイツ人やあらへんぞー!!くそー!ドイツ人めー!!(←?)」という状態になることがある。本気で「ここで暴れてやろうか…」と考えてしまったこともある。

…いわゆる、逆ギレ。

理不尽なこと、この上ない。 学校外に友達はいるが、やっぱり『学校』という共通の話題のある友達は欲しい。
それまではガマンと忍耐と努力の持久戦になりそうである。


01.06.2002記(06.26.2008改)

珍しい生き物

私の通っている大学はとても小さい。(2002年当時今でも小さいことには変わりないですが…

ほとんどの大学内にあるような、文房具などの売店もなければ、学食でさえない。(現在、建設中らしいが、いつ完成のことやら…)
つい最近、初めて具体的な全学生数を知った。
たった555人だ…。うちの小学校の方が大きいよ…)

したがって、留学生数もかなり少ない。
アジア圏からの留学生となれば、必然的に目立つのである。

ちなみに私のクラスは、私以外の全員がドイツ人だったりする。
偉そうに言うことではないが、私のドイツ語は小学校低学年程度である。
言いたいことが言えない、伝わらない、話が理解できない、ということが毎日でかなりストレスのたまる日々を送っている。

言葉の壁からか、かなりのコミュニケーション障害があって、クラスメートとはまだ『友人』という感じではない。

ぼやぼやしていて置いていかれることもしばしば。
そうなると、かなりヘコんで、物事をネガティブに考えることが多い。
例えば、「もし私がここにいなくっても、誰も気がつかないんじゃないか?」とかなんとか。
みんな親切なんだけどね。

でも、いなけりゃいないで、みんな気がつくらしい。
と、いうもの外見が目立つから。

もし、私のようなドイツ人学生(授業中、めったにしゃべらない)がいたら、何年たってもみんなに顔を覚えてもらえないだろうなー、と思う。
ところが、かなりの割合で同級生や教授達の記憶に残るらしい。どんな作品を作っているだとか、日本では何を専攻していただとか。
これって結構、トクなことなのでは?と思うことがある。

別にどうってことないと言えばそうなんだけど、私の場合、自分のことに興味を持ってもらえると、断然話しやすくなるのだ。
授業内でわからないことがあって、後で質問に行っても親切にもう1度説明してくれるし。

でも、このままじゃいけないのは明白である。

今の私は、どっちかというと学校内の『珍しい生き物』で、みんな大目に見てくれているが、1年後の今も、対して変わらない語学力でいるわけにはいけない。
周囲がどう思うか、ではなくて、せっかくドイツにいるのにもったいない、と思う。
ここでしか学べないことを、言葉ができないというだけで逃してしまうのは、あまりにも惜しい。
そのために、毎日こつこつとドイツ語を勉強しているが、こればっかりは時間がかかる。
外国語習得の早道は、できるだけ多く、その国の人と会話するしかないように思う。
それまでは、何度も心臓に悪い思いと不愉快な思いをしなければならないと思うが、誰に言われたわけでもなく、自分で好んでドイツにやってきたんだから、自分でどうにかしなくては。
プレゼンの度に『幼稚園児のはじめてのお遊戯会か、ピアノの発表会』(みんなが微笑みながら、がんばれ!という顔で私の一挙一動を見ている)状態になるのだけは、早く卒業したいものである…。


01.06.2002記(06.26.2008改)

Wednesday, June 25, 2008

語学生生活の終了

DSH試験の結果発表からさらに1週間後(だった思う)。
試験に合格したからといって、黙って待っているだけではもちろん、大学生にはなれない。
書類を揃えて、大学の事務局で入学手続き(Immatrikulation)をし、初めて大学での席が確保されるのだ。
しかし、私はDSH試験を受験した大学で勉強をはじめるつもりはない。私の美術大学ではDSH試験が行われないから、別大学で受験しただけの話なのだ。
美術大学での入学手続きに必要な書類として、DSH試験の合格証明証がある。
その証明賞を取りに再び、DSHを受験した大学へと向かった。

10日ほど前にこの町にやってきたときには、それこそ悪霊を担いでいるんじゃないかというほど身も心も重く感じたけれど、その日はその景色も違って見えた。
浮ついた気分でたどり着いた大学外国人局前で私を待っていたのは…。
入学手続きの順番を待つ、外国人入学希望者の人、人、人の群れだった。
「え?この人たち、全員ここで順番待ちしてるの?」なんて最初は信じられなかったけれど、この大学は歴史ある、海外でもとても有名なところなのだ。
大学生数も多いだろうし、それにしたがって留学生数も多いはず。
これはどこの役所や公共施設でもそうで、限られた期限内に絶対に必要な手続きをしなければならない場合、朝もとにかく早くにその手続きをする場所に行かないことには、自分の順番が回ってくることなんて、絶対にない。
何時間もそこで待っていて、でも時間切れだからハイ、帰って!なんていわれてしまう事はしょっちゅう起こる。
浮かれていた私は、そのことをすっかり忘れていて、大学の外国人局にたどり着いたのはもうすでに午前10時半ごろだった。
事務局が入学手続きを受け付けるのは、朝の8時ごろから昼12時まで。
しかも、この手続きはある一定期間内しかできないので、当然のことのように皆がその時間に殺到するのだ。

「あほやん、私…」としか自分でも言いようがなく、呆然と人ごみの中に立っていると、みんなどういうわけか、外国人局のドアに貼り付けられた紙をやたらと気にしているのが目に入った。
ふらふらとそこに寄っていくと、そこには入学手続きの順番待ちリストが貼ってあった。
1番から50番まで(だったか…?)番号がふってあるリストの横に、自分たちの名前を書き込むようになっていたのだが、もうすでに50番まで名前が書き込まれていて、その横に入学希望者が勝手に作ったリストが貼ってあり、みんなそこに名前を書き込んでいた。

ここに名前を書き込むべきか、どうか迷っていたら、外国人局から大きくて、いかにも「ストレスだらけです」という顔をした女の人が1人出てきて、その留学生お手製のリストを一瞥。
それをバリッと引っぺがし、一言。
「これは私たちの作ったリストではない。今日は私たちのリスト上に名前のある50人までしか入学手続きを受け付けない」と言い放った。

ええー、そんな!また明日もここに来なくちゃならないのー?

そこでウロウロしていた人たちの多くが、私と同じようにさーっと青ざめたり、むかついているのが見えた。
大きいし、機嫌が悪そうなその女の人に訊いてみるのも怖かったけど、「まあいいや。ダメでもともとで」と、とっとと外国人局の事務所に戻っていく彼女に話し掛けた。
「私、入学手続きは別にいいんですけど、DSH試験の合格証明証だけ欲しいんです!」とその人に言ってみると、私の方にちらっと目を向けて、「…ここで待ってて」と言われた。
あれは、私に向けて言ったのか、そうでなかったのか。
ちょっと判断つきかねて、どうしよう、どうしようとその場をウロウロしていたら、何分後かに同じ人が出てきて、奨学金留学生(か、交換留学生)に指示を出す。彼らは一般留学生とは別枠に入学手続きを行うらしい。
もう1度、訊いてみようと彼女に近づくと、訊ねる前に「私について来て!」と言われ、外国人局の事務所に入った。

名前と受験番号を告げると、ちょっと書類の間を探して、「ハイ、これ」とDSH試験の合格証明証を渡してくれた。
外国人局前では本当、どうなることかと思ったけれど、意外と簡単に目的の書類が手に入った。
…良かった、勇気を出してみて…。

まだまだ留学希望者でいっぱいの外国人局前廊下を通り過ぎて、ちょっと静かな場所のベンチに座って、じっくり証明証を見てみた。
げっ、めちゃギリギリの成績で通ってる…。
合格不合格のボーダーが口述試験なら、私の成績は口述試験行きかそうでないかのボーダーだった。

まあ、いいや。受かったんだし…。
と、この結果を気楽に受け止め、電車で家へ。
そして後日、この書類とともに美術大学の入学手続きをした。
入学手続きの帰り道、さっき受け取った学生証兼、公共交通機関の学生チケット(これがあると、電車、バス、市電などが一定区間無料で利用できる)を眺め、一人にやにや笑ったのを覚えている。

これが大変だったドイツでの語学生生活の終了で、その10倍以上大変なドイツの大学生生活の始まりだった。


10.02.2003 記(06.25.2008改)

試験結果発表

ついに私の人生を決める(大げさナ…)、DSH試験の合格発表の日。
そんな日に私は…。
結果を見に行かず、家から大学へ電話をかけておりました。

私が試験を受けた大学では、長文読解、文法、ヒアリングとさらにそれに関しての質問(私の受けた時は、聞いたことをそのまま文章にする、Diktatだった)からなる筆記試験の結果がよければ、その後の口述試験は受けなくてもよいことになっていた。
他の大学でも、そういう試験方式を取っているところが多いらしい。
でも、筆記試験の成績がボーダーラインなら、口述試験を受ける必要がある。
その場合、試験結果が張り出された後で口述試験の時間を予約するそうだ。

なんで直接結果を見に行かなかったか、今は記憶に霞がかかってて思い出せナイ…。
多分、気が小さいので、勇気がなかったんだろう。

その日、試験結果を知らせてくれるという、多分大学の外国人局に何度も電話したけれど、話中だったり、誰も電話に出なかったり。
試験結果はもう、1時間以上前に張り出されているはず。
なぜ、なぜ誰も出ないーーーーー!!??とあせる一方、合格しているかも、という希望がまだ捨てきれず、2分おきくらいに電話をかけた。
やっと誰かが電話に出たのは、かけはじめてから1時間半後のこと。
電話の女性は、平均的なドイツ人事務職らしく不機嫌で面倒くさそうな対応だった。

私がDSH試験の結果が知りたいことを告げ、自分の名前と受験番号を言うと、何かを探すような気配が電話の向こうでして、そのすぐ後、「合格してます」と伝えられた。
その瞬間に、脳内麻薬がどがーんと放出されたらしく、一瞬、目の前が白くなり、直後、ものすごいハイな気分になった。

…よかった…、これでもう、机にかじりついて毎日受験勉強しなくても済む…。(いかにも、目先のことしか考えてない私らしい安心の仕方だ…)

もちろん、この1ヵ月後、こんな甘い考えは大学での課題、ドイツ人のクラスメートを前に崩壊するのだけど、それでも1年間大学入試とDSH試験合格を目指してやってきたのだから、このときの開放感は格別だった。
ここで口述試験に関しても訊くことを忘れてはならない、と訊ねてみると、筆記試験である程度の成績が取れていたので、口述試験は受けなくてもいいと言われた。
この瞬間、天狗になりそうだったのだけど、私の受けた試験が噂に紛うことなくめちゃ簡単だったことは自分でも分かっていた。

けれども、これでやっと、3年前から立てていた無謀なドイツ美大留学計画の入り口にたどり着くことができたんだなってとても安心した。

・・実は私は、電話での問い合わせがにわかには信じられず、次の日にもまた、大学の外国人局に電話で試験結果を訊いた超小心者です…。


10.02.2003 記(06.25.2008改)

DSH試験当日

試験前日の夜はやたらと短い夢を見、よく眠ったんだか、眠れなかったんだか分からないうちに、試験当日となった。
泊まったホテルを引き払って、試験会場である大学へ。
大学自体は歴史ある、とても有名なところだけど、この大学のDSH試験は簡単だという噂が留学生うちでは知れ渡っているところだった。(ここまで書けば、ドイツ留学中の方なら大体分かると思います…が、2008年の今はどうなってるのか分かりません)

大学のロビーのようなところで受験生は待たされて、皆一様に落ち着かない様子だった。
何分後かに試験官の指示によって、受験票の番号にしたがって、ある一定人数ごとに試験会場となる階段状になっている大講義室に入った。
ここの大学では席は受験者の自由。
私は1人で行ったので、適当な席に座った。
ここでまず、なんだかおかしいと思ったのが、友達同士で来ている人たち数人が、横並びに座るのではなく、縦並びに座ったこと。
「なんでだろう?」という疑問は、試験開始後にすぐわかった…。

席が階段状になっているのなら、縦並びの方が横並びより、カンニングしやすいからだったようだ…。
下の人の答えを上から簡単に覗き込めるから。
そのほかにも、試験前に「辞書の使用は禁止」と注意を受けたにも関わらず、試験中に辞書を使って没収される人、堂々とカンニングをして、試験官に目をつけられてずっと監視される人、私語で注意される人、いろんな人がいた…。
たかがDSH、されどDSH。
この試験に落ちれば、ドイツに滞在できなくなって帰国しなければならない人もいるだろう。
語学生用の滞在許可ではドイツで合法的にアルバイトができないのだ。
そういう意味で、この試験になんとしても合格し、大学生となって滞在許可を申請して、すぐに自分で自分を養わなければ生活できない人もたくさんいたはず。

その根性に感心はしたが、あまりのうるささに気が散って試験に集中できねえ…。
というのも、すぐ隣+前+後の女の子たちが組織カンニングをしてて、試験官に目をつけられ、30分ほど事あるごとに「私語は禁止」、「自分ひとりの力でやんなさい」だの、「いや、カンニングしてない」という押し問答が続いたのだ。

ただでさえも緊張している中、例の女の子たちのせいで隣に試験官がぴったりくっついている状態での試験は、心身ともにとても疲れた…。
…でも、こんなこと試験中に日本でやったら、即刻会場からつまみ出されるような気が…。
私なら、怖くてそこまでのリスクは犯せないなー…。

4時間後に試験終了。
出来に多少の悔いは残ったけれど、落ちたら落ちたで「あそこまでやったのに落ちたのなら、仕方ない。それが今の実力」とあきらめられるくらいの気持ちになった。
試験結果は約1週間後に出るそうだ。
合否の結果は大学の前に張り出されるが、電話ででも結果を教えてもらえるらしい。
のしかかっていた悪霊でも落ちたのか、なんだか肩が軽くなった気がしつつ、大学を後にした。

「とりあえず、終わったでしょう記念」にケーキでも食おうとカフェに入り、バームクーヘン・トルテとカプチーノを注文。
試験後、興奮していたわけでもないんだけど、体がふわふわしているような、変な浮揚感があった。
会計の際に、「イレブン・マルク、プレーズ」と言われ、にわかに11マルク(当時はまだユーロが導入されてなかったんですねー)のことだとは分からず、「外国人だからって、なんでも英語で言わなくても…」と一人でブツブツ言いながら、自宅のある町へ電車で向かった。

このとき、やたらとカイリー・ミローグが流行っていて、おかげでDSHのことや試験を受けた町のことを思い出すと、未だに自動的にカイリー・ミローグの歌が頭の中でかかる。
ちなみに、某タ○ビを受けて落っこちた時のテーマはカヒミ・カリィだったりする…。
なので、二子多摩川のテーマもカヒミ・カリィです、勝手に。(分かる人にしか分からないネタで、すみません)


10.01.2003記(06.25.2008改)

DSH試験直前

とある美術大学の入学試験から、大学での授業についてゆけるだけのドイツ 語の能力を証明するDSH試験(Deutsche Sprachpruefung fuer den Hochschulzugang auslaendischer Studienbewerber)まで約1ヶ月半。
その間、何をしていたかっていうと…。
旅行行ったりしてましたー。しかも2回も。そのうえ国外旅行(フランスとイタリア…)。
エヘ。

ドイツ留学希望者なら誰でも知ってる、恐怖のDSH試験。
「そんなの余裕よー」なんて思っていたわけではもちろんなく、何ヶ月も前から日本の友人がフランスにやってくることが分かっていて、彼女にはこの機会を逃したら、今度いつ会えるか分からない。
そして、もう1つの旅行も美大入試も済んでいないときに、たまたま友人から「イタリア旅行の席が余ってるけど、どう?費用もかなり安いし」と言われて、「まあ、息抜きも大切だし…」と軽く受けてしまっていた。
これらの旅行の予定を立てたときには、まだまだDSHまで時間があったので、ここまで精神的に切迫した状況になるなんて思っても見なかった。

勉強の息抜きどころか、旅行の息抜きにいっちょ、勉強するかー!みたいな…。
…世間をなめすぎだって…。

7月のはじめに美大の合格通知をもらい、とりあえず実技試験には合格したぞ、自分にゴクロウサンと浮かれて、その上、旅行だ旅行だとばたばたして、結局7月は大して勉強もせずに通り過ぎてしまった。
やっと本腰を入れてDSHに対する勉強をし始めたのが、8月。
9月の末にはついに試験。
毎日語学学校に通いつつ、それこそ、毎日血反吐吐くほどのドイツ語勉強の日々となった。

私の通っていた語学学校は、ドイツの大学入学希望者がとても多く、8月9月と受講したクラスの受講者半分以上が1ヶ月、2ヵ月後のDSHに向けて勉強していた。
そんなみんなの中だからこそ、自分の実力も分かるというもの。
先生も口には出さなかったけど、「…コイツは多分、ダメだろう…」と思われていたこと、間違いナシな劣等生だった。(DSH入試のあとで先生に訊いてみたら、やっぱりそう思っていたらしい)
ドイツ語の発音は悪い、聞き取りができない、長文読解はいつもとんちんかんな答えを返す、と3拍子揃っていることは自分でも分かっていたけど、ここであきらめるわけにもいかず…。

キレる直前ぐらいのストレスの中、9月にはさらにとんでもない事態になった。

DSH試験前の最後のクラスの先生として、私が学校内で一番苦手なD先生が担任になってしまったのである。
D先生は60歳くらいの、ちょっとダンディなデッカイ雄牛みたいな先生で、いつも葉巻と紙タバコの中間のような細くて茶色いタバコを吸っている人だった。
いつも「姑が行方不明になった日に、嫁さんがよく分からない動物の肉で豪華な焼肉作り、近所に振舞った」とかブラックなギャグをとばしていて、ドイツ語の発音にとにかくウルサイ。

めちゃめちゃ日本語なまりのドイツ語発音をする私は、D先生のツボにはまってしまい、15人以上も他の生徒がいるにも関わらず、私の発音の矯正のためだけに5分10分授業が中断することがほぼ毎日の状況に陥ってしまったのだ。
それに、ちょっとでも分からないことを質問したり、反論したりすると、逆にぐうの音も出ないほどやり込められるので、会話をするのにもものすごく気合が必要。
けしてD先生が悪い人だとは思わないけれど、DSHが目前に迫ってくる中で、文法、長文読解なんかに力に入れたい私には、苦痛なことこの上なく、しかもどういうわけか、他のみんなが1回当てられる間に、私だけ3回当てられる状態だった。
多分、気にかけてもらっていたからこそ、あれだけうるさく発音に注意されたし、何回も当てられたんだろうけど、途中で耐えられなくなって、「頼むから、いちいち私に振ってこないで~~~」と半泣きでお願いし、やっとちょっとは落ち着いて勉強することができるようになった。

そして、せっせと鈍い脳みその許容量限界まで即席ドイツ語知識を詰め込み、いろいろあったけど、親切にしてもらったD先生に「がんばれよ~」と励まされ、試験のある大学町まで出かけていったのは試験前日の9月も末。
緊張と興奮でふらふらになりつつ、その日はその町のホテルに泊まった。


10.01.2003記(06.25.2008改)

入試・その後

すべての試験が終わって、「不合格」を確信した私…。
とりあえず、この先の、最低でも1年間の身の振り方を考えねばならない。

実は、すでにうちの近所にもう1つ、私立の美術学校を発見していて、そこの入試を受けようか、とも考えていたのだが、作品数が足りないのと、経済的な理由からどうも気が進まなかった。
「私立」というからには「授業料」がいって、それは月額にして50000円くらいだけど、それも今の私には結構痛い金額。
文字通り、お先、真っ暗だった。

どよーんと落ち込んで家に帰ったら、うちの中国人の同居人がとっても浮かれたていた。
どうしたんだろう?と思って、聞いてみたら、今日、彼女にある大学からの入学許可証が届いたとのこと。
彼女は、前の学期に向けて、かなりの数の大学へ願書を送ったみたいだけど、すべて入学を断られてしまった。
だから、今回の入学許可証には喜びも大きく、「今から入学許可証を祝って、友達とディスコに行くのー!!」と言われてしまい、なんだかもっと落ち込んでしまった…。

彼女がどれだけ苦労したか知っているのだから、一緒に喜んであげたかったけど、そんな気力は沸いてこなかった。

このまま日本に帰るにしても、ドイツ語もまだそれほどうまくない。
だから、あとも最低でももう1年はドイツに残って、ドイツ語を勉強したいなー、とか思い、「では、どうやってドイツに残ろうか?」といろいろ対策を練ってみた。

1番の問題は、滞在許可。
この時点で、私はすでにドイツに1年近く滞在しており、語学ビザの最大延長期間は1年半(2001年頃の情報)。
それ以上になると、外国人局でかなり渋られるそうとの話を聞いていたので、このまま、のほほーんとしているわけにもいかない。

で、思いついたのが、大学の語学コース。
私が受験した大学には語学コースはないけど、普通の大学なら語学コースはある。
(実は、語学を磨いた1年後に、また同じ美大を受験する野望もあった…。)
でも、最近、この語学コースも人気が高くなってきて(授業料が無料だし、DSH試験に対応した授業をするから、このコースに通っていると、DSH合格の可能性が高くなる)なかなかはいれないとのウワサを聞いた。
語学コース用に、入試があるところも珍しくない。
なので、語学コースの入試用に勉強しつつ、一方では例の私立美術学校用に作品をぼちぼちつくることにした。
それにしても、この時期はかなり精神的に苦しかったのを覚えています…。

目標を定めなおして、1週間後…。
私の受験した大学から、1通の手紙がやって来た。

もちろん、受験結果の通知。

あきらめていたとはいえ、なんだか、異常に緊張して、開封までに10分は要したような…。
で、意を決して、手紙を読んでみたら、なんと合格しているではありませんか!?
自分でもびっくりして、でもうれしくって、友達だの、親だのに即刻電話した気が…。

実は、このときに電話した相手には、受験直後に今にも死にそうな声で、

「試験、あかへんだねーん。もう絶対。
これから1年、なっとしょー。
うわ、来年も受験するんやと、また作品、全部新しく作りなおさんとあかんやん。
ドイツ語も勉強せなあかんし…。
もう、なっとしょー…」

とかいう、かなり迷惑な愚痴り電話をかけていたのである…。

みんな、私と一緒に喜んでくれたけど、うちの両親は多分、寿命が縮まったはず…。
スミマセン…。

でも、これで、気を抜けないのがうちの大学。
というのも、うちの大学では、外国人の新入生の入学条件には、DSHの合格が必須となっている。

実技試験の合格自体は、2年間有効だけど、私としてはこの冬学期からすぐにでも入学して、勉強を開始したい(1歳でも若く、勉強をし終わった方が、将来の仕事のためにもいいかと…)という、結構無謀な思惑から、このあと、DSH試験の合格を目指すこととなった。


05.22.2002 記(06.25.2008改)

面接

実技試験の次の日、私はまた学校へ向かった。
面接は苗字のアルファベット順で行われ、「YAMAMOTO」な私は当然のように一番最後。
試験の招待状に「あなたの面接試験は、11時に始まります。それまでに来てください」と書いてあったので、確か10時半くらいには大学に到着していたと思う。

大学には、自分の出番を待っている受験生が10人くらいすでにいて、なんだか嫌な予感がした…。

面接試験は、教授3~4人と受験生3人の対話式で行われたんだけど、どうも前の方の面接がどんどん長引いてきているよう。
「最初の面接組が5分延長してしゃべる」→「次の組も5分延長」→「…これが延々と続く…」という構図で、結局、面接の順番がたまたま最後の方だった人たちは、 2時間以上も大学で待たされることとなった。

みんなそれなりに緊張していたけど、気分転換にお茶でもしたくっても、いつ自分の面接がはじまるか、分かったものじゃないからずっとここにいなくちゃいけない。
どことなくイライラしながら、それぞれ2時間どうにか耐えていた。

そんな時、小心者な私はどうだったか?っていうと…。
今にも緊張で脳みその血管が切れそうだった。

前にも書いたように、不合格を80%確信していたわけだけど、まだあきらめていたわけではなかったので
他の受験生たちは、「なんでこんなに遅れるんだ」とか文句を言い合って、それでもなんだか楽しそうに談話していたけど、彼らの話に入っていけるほどの語学力は私にはなかった(そして、今もかなりツライ)。
みんなが何かを話している間、私は一人アヤしく寂しく、面接の練習をしていた。
「私はヤマモトといいます。日本から来ました。」「なんでドイツで勉強したいと思ったかというと…」とかなんとか。

結局、私の面接が始まったのは、午後の1時すぎ。
この時点で、もう緊張もなにもなくなっていて、ヘロヘロになっていたような…。
とにかく、早く終わってくれー(涙)という気分だった。

面接部屋には、教授と講師、それから助手の全部で7~8人はいたと思う。
最初に向こう側から自己紹介されたけど、これがねー。名前が聞き取れなくって…。
ここは、得意の知ったかぶり、というか、聞こえたフリをした。

そして、今度は受験生の番。
自己紹介と実技試験での自分の作品紹介。そして、願書提出時に同時提出したファイルの中から、一番自信のある作品を選んで紹介しろ、と言われた。
で、どういうわけか、私がトップバッターだった。

気分は実技入試直後と同じ、「今日は教授たちと楽しいオハナシをするのー。うふふふふふふ…」というラリった状態。
緊張しすぎで、正常思考回路に異常をきたしていたらしいので。
なんとなく、自分の作品を説明して、私の入試のすべてが終わった…。

いや、本当は「自分の番が終わった」だけだったんだけど、自分の作品紹介を終了した時点で、もうまだ他の受験生2人の面接が終わっていないことなんて、きれいさっぱり忘れていた。

私の次に自己紹介をはじめたのは、右隣に座っていた男の子。
彼が説明しはじめた時に、かなりショックを受けた。
なにがスゴかったって、作品のファイル。
私のように「何に使えるか分からないけど、いろいろオブジェを作ってみましたー。みてみてー」とかいうんじゃなくって、「僕はハンドドリルを設計してみました。 こういう機能がついています」とかいう、かなり具体的で、かつ丁寧なスケッチが何枚もあった。
教授たちも、私の面接のときとは違って、彼のスケッチを身を乗り出して、見ていたし。

なんだか隣に座っていて、悲しくなってきたことを覚えている。
「高校卒業したてのにいちゃんが、こんだけできて、なんで私は…」って感じに。

彼の後に、最後の女の子の面接。
彼女のファイルは、どっちかっていうと、私のと同じタイプ。
いろいろ説明していたけど、若いドイツ人は大抵、早口でしゃべるので、何を言っているのかさっぱり分からなかった…。

面接の最後に教授がこう言った。
「こたつさんは問題ないんだけど、他の2人。
うちの学校は、大学(Hochshule)であって、専門大学(Fachhochschule)じゃないから、ひょっとしたら、あなたたちは試験に合格できないかもしれないですね。
うちの学校には、大学入学資格がいります。
あなたたちは、専門大学入学資格しか持ってないので。
100%不可能ってわけではないけど、そういう可能性がありうるということは知っておいてくださいね」

他の2人は、この瞬間にかなり青ざめていたよ、かわいそうに…。
でも、入学資格っていうのは、大学に願書を出す時点か、それ以前に調べておくものじゃないのか?

いつも思うんだけど、ドイツ人てこのへんにかなりいいかげんなような…。もちろん、全員じゃないんだけど。


05.10.2002 記(06.25.2008改)

入学試験

願書と共にファイルを提出してから、約1週間後、早速、美大から入試の期日や方法などを記載した手紙がやってきた。

「入試は、多分、あと1ヶ月後」と勝手に思いこんでいた私は、その手紙をもらってから2週間後に入試、という事実にかなり驚いて、焦った。
どうしよう、と思ったけど、今更なのでとりあえず、必要なものを揃えるなどの準備をしつつ、ドイツ語の勉強。
そして、なんだかあっという間に入試の日がやってきた。
前日は、「試験に落ちたら、その後何をしたらいいんだろう…?」とか考えていて、眠れなかったような…。
自分でいうのもなんだけど、気の小さいヤツだ…。

うちの大学の入試は、2日にわたって行われ、1日目は実技、2日目は面接。
入試の招待状には、「A2のスケッチブックにいろいろな硬さの鉛筆、色鉛筆、水性絵の具に筆、マジックなどなど…」とか書いてあって、一応、書いてあるものは全部、持っていった。

うちの科の定員は25人くらいで、志願者はこの時、50人くらい。
試験官に「好きなところに座って」と言われて、みんな適当に席を取っていた。
入試への招待状(変な表現だけど、他に思いつかないので…)には、1時間づつ3種類の試験がある、と書いてあった。
私は日本でも美大に通っていたので、日本の美大の入試も受けたことがあるんだけど、どこの学校も1種類の試験(例えば、デッサンなり平面構成なり) に対して、最低でも3時間は時間をとっていたような…。
「試験時間が短いのに、マジックだの絵の具だのが必要??」とか思ったりもした。

試験会場には、Mappenberatungと呼ばれる、要するに「こんなファイルでどんなもんでしょうかー?」と大学入学希望者がファイルを教授に見せて助言をもらえるという、結構ありがたい集まりで見た面々もいた。
ざっと見たところ、私以外にアジア人受験者はいなかった。
受験者名簿の中には、中国人と思われる人の名前もあったけど、結局この人達は会場には現れなかった。
ちょっとドキドキしながら試験開始を待っていると、若いけどチョビヒゲのおじさんが椅子をひとつ担いで現れた。
最初の試験は、「この椅子をデッサンしろ」というもの。

おお、こんな試験は日本の美大入試と一緒だ、とか思って描きはじめたら、私の前の席に座っていたおにーちゃんが話しかけてきた。
「あのさー、スケッチブックのサイズ、間違って持ってきちゃたんだよね。何枚か分けてくれない?」って。

…あんた、あんなにでっかくサイズ指定書いてあったやん…。ちゃんと読んで来やんだやろ…。

まあ、随分余分に持っていったから、分けてあげたけど。
でも、書き始めて5分くらいたってから、私の絵を他の人達の絵がかなり違うことに気がついた。
何が違うって、絵のサイズが違う。
私みたいに、A2の紙一面にでかい椅子を1個だけ、なんて描いている人は1人もいない…。
みんな、A2の紙の上に、小さく椅子を細かく描いていた。人によっては、同じ椅子を複数、多い人は5個とか6個とか、時間内に描けるだけ描いていた。

だって私は、大学受験の時に、「デッサンは、出来るだけ大きく描け!」って言われたから…。
と言い訳しても、ここはドイツで、日本じゃない。
郷にいりては郷に従え、だけど、日本での美大受験の際に叩き込まれた「デッサン術」みたいなものが体に染み付いている上、試験時間は1時間。
「え?どうしたらいいんだー!?」とか考えているうちに、試験終了…。
後に試験はまだ2個あるのに、すでにどっと疲れてしまった…。

15分くらいの休憩をはさんで、次の試験。
またあのチョビヒゲのおじさんがやってきて、試験を読み上げた。

が、私には何を言っているのか、理解できなかった…。
目の前が真っ暗になったけど、ここで「わかりませんでした」と1時間座っているわけにもいかないので、おじさんのところまで行き、「試験の問題が聞き取れなかったので、もう1度言ってください」とお願いする。
見るからにアジア人な私に、おじさんは親切に説明してくれた…。おじさん、ありがとう…。

後の2つの試験は、デッサンとかじゃなくて、本当に「デザイン」に関係するものだった。
「ペットボトルの水を輸送するための容器を考えろ」やら、「海岸で貴重品を保管するための器具を考えろ」やら。
試験が終わった頃には、「ダメだ、こりゃ」と不合格を80%確信してしまっていた。
自分の発想力のなさを思い知った感があった…。

次の日は教授たちとの面接だった。
 実技試験でかなりこけたことで逆に開き直って、「明日は、大学の先生たちと楽しいお話の日。ウフフフ…」と酔っ払ったような気分でうちまでヨロヨロと戻った。

この後、家で「さて、あと1年、どうしようか…。来年、もう1度受験しようか?それとも、聴講生を1年くらいしようか?」とかなり真剣に考えた記憶がある。
でも、「ダメだ、こりゃ。次、いってみよう」と開き直ったためと、昨日あまり眠れなかったことから、この日はすぐに深い眠りについた。


04.06.2002記(06.25.2008改)

美大入試に向けて・その4

まだまだ美大入試のための願書とファイルの提出までには時間があると思っていたのに、いつのまにか今月末には締切、という状態になっていた。

ファイルの作品自体はぼちぼち作っていたから、どうにかなりそうだったんだけど、この作品のほとんどが立体作品だったのだ。
そうすると、大学側にこの作品すべてを送りつけるわけにはいかず、写真を撮って、それをファイルにまとめて提出することにした。

作業途中で日本に置いてきた私の作品写真が、郵便事故にあったりして届かず、その写真の穴埋めをどうしようか、とウダウダ考えているうちに提出期限の5日前。
そこでやっと私の尻にがついた。

かなり大きな問題だったのが、ここがドイツ、だということ。
なんでも便利に調達できる日本とは違うのだ。
 24時間営業のコンビニなんて見たこともないし、第一、普通のお店は全て日曜日には閉まっている(法律で日曜日の商店の営業が禁止されている。日曜日に店を開けていると、罰金をとられるそう)。

カメラフィルムの現像も、30分後にハイ、できあがり、なんてことは絶対にない。
朝一番にフィルムをカメラ屋に持っていって、出来上がるのが1日後。ちょっと拡大なんかをお願いすると、もっとかかる。
しかも、上記の理由で週末は時間に気をつけていないと、店が閉まってしまう。

私は月曜日に大学側へ直接提出すべく作業していたのだけど、こういうときに限って、どういうわけかどうでもいいことをやりたくなるであった…。

この締切5日前の時点で、すでにどうにか作品数はぎりぎり足りていたし(数は。質の方は…)、これ以上、作品をつくる必要もなかった。
が、1つやりかけの作品が完成されずに部屋の隅に転がっていて、それを見た瞬間にどうしても完成させないわけにはいかなくなったのだ。

しかも、私のカメラにフラッシュはついてなくて、家にも良い照明装置はない。
つまり、昼間の太陽の方向が(写真撮影に)良いときしか、撮影ができないにもかかわらず、いきなり朝からその作品の続きをつくりはじめてしまった。
写真は、金曜日である、明日朝一で現像に出さないと、土曜日に写真ができない。
ドイツのお店の営業時間を考えると、土曜日に写真ができないと、月曜日の締切に間に合わない。なのに…。

「分かっとる。これ作っても作らんくっても、一緒やって。それより、作品の説明をドイツ語で書かなあかん。でもな…、でもな……でーもーなーー!!

とかなんとか叫びながら、ぶつぶつ独り言を言いつつ、結局徹夜でこの立体作品を仕上げ、へろへろになりながら写真を撮り、もうろうと歩いて写真屋ヘ…。
カメラ屋にて自分のフィルムを預けたときは、なにか大きなコトをやり遂げた感じがして、それはそれは爽快だったけど、実際には、やらねばならないことを放 り出して、自己満足のために貴重な時間を使用してしまっただけの話であって、このまま眠ることは、許されないことだった…。
そのまま、よろよろと家に帰り、すぐに作品の説明をドイツ語に翻訳する作業に入った。
これは、募集要項には「作品に説明をつけること」なんて、書いてなかったけど、私の作品は結構、抽象的なもので、後々になんらかの実用的な物体に転換しよ う、という試作品が多かったから、自分で必要だと判断しただけで、絵画や彫刻を専攻したい人には必要ないのかもしれない。
でも、この翻訳がかなりややこしい。
別に高尚なことを書きたかったわけでもない。問題は、ドイツ語の母語(元になった言語)が日本語のそれとは全く違う、ということ。
中国語は日本語の母語ではないけど、それから多くの影響を受けているため、四文字熟語をドイツ語にそのまま訳して中国人に言っても、意味を分かってもらえることが多い。
でも、これをドイツ人に言っても、ほぼ100%の確立で分かってもらえないのである。

私の場合、手紙を書くくらいなら問題ないけど(手紙や会話に四文字熟語なんて、私は使わないので…)、多少見栄えのする文章を書こうとするとちょっと難しい言葉を使いたいため、この翻訳はかーなーりー時間がかかった。
ものすごく短い文章だったにも関わらず…。

で、その文章はもちろん、ドイツ人の友人や、同居人に校正をしてもらわないといけなかったのだが、やっぱり意味不明なところが多く、そのたびに説明して…、書きなおして…、ということを繰り返して。
どうにか、夜の7時には翻訳も完了し、完成の目途が立ってきた。
次の日に写真を受け取り、土日にまだバラバラの状態だったファイルをまとめる作業をして、どうにか月曜日に大学にファイルを提出することができた。

余談なのだけど、徹夜明けの金曜日、午後8時には眠った私は、一晩中道路の工事現場のような歯軋りをしていたらしい…。
…疲れとったんやって!(それにしてもはた迷惑)


03.15.2002記(06.25.2008改)

美大入試に向けて・その3

私もそうだったし、他のドイツでの美術留学を希望するひとの多くが、

ドイツ語なんて習ったことがなかったと思う。
ドイツ語を習いたいわけじゃなくって、美術を学びたい、なのに、全部ドイツ語のめまいのするような細かい文字が並ぶ募集要項を読め、と言われた日には、涙が出てくる。(私がそうだった…)
でも、ドイツで勉強するには、ドイツ語は切り捨てられないものだし、どっちにしろ、授業はドイツ語で進められるのである。
それに、募集要項や学校紹介のカタログなんかで使われる言葉は、どの学校でもほぼ同じなので、ここは歯を食いしばってでも、一冊、通して読んでみることをお勧めする。(どこの学校のものでも構わない)

そうすれば、2冊目からはざっと目を通しただけでも、なんとなく意味は分かるようになるはず。
1校しか受ける予定のない人は、1校分のカタログやら募集要項ぐらい…、と考えて…。
私が最初に通して読んだのは、DAAD(ドイツ学術研究会)の冊子「Studium in Deutschland : Information fuer Auslaender ueber das Studium an Kunst-und Musikhoschschulen」だった。
これは、ドイツへの美術・音楽留学の手引書で、美大、音大に関する一般的な情報が載っている。
まあ、薄い(20ページほど。美大の情報はそのうち10ページぐらい)本だから、細かい情報、例えば、各大学のファイル提出締切日なんて載っていないが、この本の最後の方に、全ての美術・音楽大学の住所と開設学科の表が記載されている。

「どうしても、○○美大に入りたい!」と心に誓っている人は別だけど、そうでない人は、この住所を頼りに片っ端から資料請求をしてみてはどうだろうか?
予定していた大学に、思いもかけない前提条件がある可能性もなきにしもあらず、なので。
選択肢は、より多い方がいいように思う。

DAADには、これらの資料の郵送も郵送もお願いできるようなので、どうぞ、電話するなり、H.P.を探すなり、してみてください。(多分、DAADかドイツ学術交流会で検索にヒットするはず)

そんなこんなで、工業デザインを開設している大学、全てに資料請求したにも関わらず、実際に、私が受験した大学は今の大学のただ1つだった。
作品数が足りなくって、学校を受験するのに必要なファイルを1つ作るので精一杯だった、というのが理由である。

うちの学校のファイル締切は、たしか比較的遅くって、5月末だった気がする。
前にも書いたけど、他の大学では3月か4月末、というのが一般的で、しかもファイルの大きさ指定のあるところが多かった記憶がある。(でも、うろ覚え)
うちの学校は、ファイルの指定なんてなかったけど、A3の私のファイルが出願者の中では一番小さかった気がする。
だいたい、みんなA2ぐらいのファイルを提出していた気がする。
なかには、A1なんて人もいた。

工業デザインのファイルでさえこんな感じだったんだから、絵画やグラフィックデザインの出願者のファイルは、A1で普通なのかもしれない。
(あくまで個人的見解なので、受験を希望する人は、直接受験予定校に問い合わせてください)


02.13.2002記(06.25.2008改)

美大入試に向けて・その2

ドイツの大学は、一般的に入試行っておらず、願書を提出するだけで大丈夫な場合がほとんどなのだが、美大はもちろん一般的な大学ではない。(もちろん、医学部のような人気の高い学科は、入学制限がある)

従って、「願書の締切は、冬学期で7月15日、夏学期で1月15日」なんて常識は一切通用しない。

私の知ってる限りで、一番早いところで冬学期の願書とファイル提出が1月だった。多くの学校で、確か3月末か、4月末に締切があったはず。

そんなわけで、もう大学が始まる1年ぐらい前には試験方法や締切などの問い合わせをした方がいいのである。

それから、多くの学校で冬学期からしか入学できないということを知っておいた方がいい。
私は8月にドイツにやってきて、それは思いがけず、受験準備にはちょうどいい時だったように思う。(まあ、いきなり試験を受けても大丈夫、っていう人は別だけど)

なんとか生活が落ち着いてきたころに、何校か美術大学を見学した。

一度、たまたま見学しに行った時が、講評の日だったこともあった。
これはラッキーだったと思う。

そうでなくても、大学の募集要項などに、Mappenberatungといわれる<ファイルの作り方指導>みたいなものや、学校の紹介や方針などの説明会などが記されていることがある。
こういう場に顔を出すことは有効な手だと思う。

ドイツ人でも、そういう場に何度か行って、教授に顔を覚えてもらってから受験する人が多いようだ。
そこでは、受験生が持ってきた作品に対して、教授が「こういう作品が望ましい、期待される」とか「ファイルの作品には、こういう方向性を持って欲しい」などを語るのだ。

私の学科がデザイン専攻なせいか求められたものは、「作品と構想の過程」だった。

私は大学の時の作品があまりまとまっていなかったのと、見せたくなかった(自分で見てもイケてなかった…)のと、求められている方向性と違ったことがあって、こっちに来てから半分ぐらいの作品を新たに制作した。

割と好きなように制作していたし、楽しかったので、そんなに苦にはならなかったけど、やっぱり締切が近づいてくると、ストレスと不安から眠れない日があった。

入試のために作品を制作しなければならない、ということと、DSH試験のために毎日ドイツ語を勉強し続けなくてはいけない、ということを両立することかなり大きなストレスだった。

たとえ、十分な時間があったとしても、どうせ私のことだからダラダラして間際に泣きを見ることになってただろうけど…。


01.06.2002 記(06.25.2008改)

美大入試に向けて・その1

私はドイツの美術大学入試に対して、思い違いをしていた。

日本でよく聞く話は、「美大の入試に求められるのは、語学力でなく「才能」とか、「ドイツ語ができなくったって、大丈夫。入試はファイル提出だけ」とかだった。

そういう入試を行っている大学もあるし、ドイツ語が全くしゃべれなくても合格した人もいるだろうけど、そうやって合格した人は それはめちゃめちゃ運がよくって、度胸がある人だと私は思う。

私も最初は「入試はファイル提出だけ」だと思っていた。
でも、大学から送られてきた資料を読んでいるうちにそうじゃないことに気がついた。

ほとんどの学校で、入試の際に面接があったり、ファイル提出のほかに日本の美大と同じようなデッサンの試験(時間内に課題を描きあげろっていうもの)やそれによく似たものがあるのだ。

しかも、ドイツでデザインを勉強する条件として、多くの学校で「入学前の2・3ヶ月の企業研修」をあげている。
その上、DSHと呼ばれるドイツの外国人留学生用の語学試験(最近はTestDaFという試験もあるみたいですね)の合格も条件になっている場合が多かった。

美大の入試まで時間があまりなかったことから、DSHを受験するか、企業研修するかの二択となった。
当時の語学力では企業研修は無理だろう、とDSHの受験を選んで、ドイツ語の勉強に、皿にせいを出すことなったのである。

そんなこんなで、ドイツにやってきて4ヶ月後に引越しをした。

上記の理由で、ドイツ語はどんどん勉強しなきゃいけなかったが、前の語学学校の授業料が高かったため、この先授業料を支払っていくことが出来ず、どうしても他の学校に移る必要があったからだ。

滞在許可の延長に次の語学学校の証明書が必要だったのと、年末が迫ってきていたため、「ゆっくりいろんな美大を見学して、その町でいい語学学校を探す」なんて悠長なことは言ってられなかった。
とにかく、授業料が安い学校に移ることにした。

この2番目の学校を選んだ他の理由は、「近くに私が受験できる大学があること」と、「知り合いが近くに住んでいること」だった。

この学校には結局、DSH受験までずっと通っていた。
やっぱり授業料が安いし、それにここの生徒の多くが私と同じように、ドイツで大学生になるべくドイツ語を勉強していたので、彼らと友達になっていろいろな情報をもらっていた。

授業の質はどうか、というと一長一短だったような。

先生によって当たり外れが大きかった。授業の進め方の合う先生に当たった時には、学校も楽しかったけど、そうでない先生に当たった時、どうしてもガマンできず、途中で行くのを止めて、授業料を払い戻してもらったことがある。
それでも、ここの学校で本当に多くを学んだことは間違いないことなので、今でも感謝しているんだけどね。


01.06.2002 記(06.25.2008改)

ドイツ生活開始・その2

ドイツにやってきて半年ぐらいは、毎日、朝起きてから夜寝るまで、1日中勉強していた。

大学の受験勉強もろくにしなかった私にしては、自分でも思うが、かなり真面目に勉強していた。
ただ、他にすることがなかったのと、そうでもしないとどうしようもないくらい、ドイツ語ができなかったからである。

私は日本で、「語学学校で3ヶ月ぐらいドイツ語を勉強したら、ちょっとはしゃべれるようになるだろう」とか思ってやってきた。

もちろん大きな間違いだった。(そんなこと思ってる人はいないかもしれないけど…)

よほどの語学的才能がないかぎり、0からドイツ語を習い始めた場合は、1年やそこらで会話などを完全に理解してドイツ語をドイツ人のように話すことなんて不可能だ、と言いきりたい。

こんな大きな思い違いをしてやってきて、気づいた時にはドイツにいたわけである。
金銭的な状況や、将来的な仕事を考えると、出来るだけ早く大学に入学したかったし、この不自由でどうしようもない生活を改善するためには「ドイツ語のより早いマスター」と、勉強に燃えていた。

最初に通っていた学校は、毎月末に短くって5日、長くって10日くらいの休みがあって、その時にDAAD(ドイツ学術研究会)からもらったドイツの美大関係の資料を読む、大学に資料請求の手紙を出す、返信されてきた大学の資料を読むなどのことをして過ごしていた。

旅行に行ったりもしたのだが、金銭的に余裕があるわけではないし、ちょっとした一泊旅行でも気合が必要だったので(日本語でさえもなまっている私のドイツ語は、やっぱりなまっているらしく、よく通じない)である。
しかも焦ると、どんどん混乱してきて余計に不明瞭なドイツ語をしゃべるらしい…。そんなわけで、旅行に出ると楽しいんだけどイヤでも緊張してしまい、余計に疲れるので)そんなにしょっちゅう旅行しなかった。

よく思うことは、「自分の他に、日本人のいる学校でよかった…」と、いうこと。

そうでなかったら、真面目な話、ドイツに残っていなかったかもしれない。
必要な手続きについて教えてもらったり、日本食や調味料を買える場所(アジア食料品のスーパーなど)を教えてもらったりなど、いろいろ助けてもらった。

英語もドイツ語もあんまり出来なくて、いきなり初めて会った日本人以外の人といきなり友達になる、ということに自信がない人は、最初の2・3ヶ月は無難な学校を選ぶのも手だな、とか思ったりもした。

この考え方こそが、小心者の証なのだろうけど…。


01.06.2002 記(06.25.2008改)

ドイツ生活開始・その1

ドイツ到着の次の日に、語学学校でのクラス分けテストを受け、その次の日から授業が始まった。

私の最初のクラスは、初級の下から2番目のクラス。文法テストは結構出来たらしいが、インタヴューでのあまりに乏しい会話力が決め手となって、「簡単なクラスから」ということとなった。

下のクラスから始めたことは、今考えてもよかったと思う。

日本では独学で初級文法を終了していたが、授業では分かっていることをもう一度ドイツ語で説明されていたので、どうにかついて行く事ができた気がする。
知らなかった文法や表現法を習い始めたころは、なんとかドイツ語に慣れていたころだったので理解できたが、最初のころは、授業内の会話が全くわからなかった。

さて、こっちにやってきて早々は、しなければならないことがたくさんあった。

2000年の12月から法律が改正されて、日本人はあらかじめ日本でビザの申請をしなくっても、ドイツ国内で滞在許可の延長が出来るようになったらしいけど、私がやってきたころ(2000年夏)はそうじゃなかった。

日本で「大学志願者ビザ」というものをドイツ領事館(か、大使館)で申請する必要があって、それを手に入れてから入国した。

事前に電話で問い合わせたところ、窓口のおばちゃんのかなり応対がよくなかったのだが、実際申請したときには、親切にしてもらった覚えがある。
でも、私は運がよかったようで、とんでもない目にあった友人の話を聞いたことがある。
だから、「今は手続きが簡単になっていいなー」と思う。

領事館にてビザをもらった時に、「ドイツ入国後、1週間以内に居住届を済ませて、外国人局に行くこと」とあった。
これがドイツ入国前に一番大きいストレスだった(日本語しかしゃべれなかったから)。

住居届の方は、ゲー○にいるツィービー(Zivildienstleistender:ドイツには兵役義務があるが、兵役につきたくない人は社会奉仕作業を兵役の代わりに行うことが出来る。
○ーテは半官半民の学校なので、2~3人のZiviがいる)が代行して行ってくれたが、これがめちゃめちゃゆっくりで、パスポートが手元に戻ってきたころには、もう入国後2週間は経過していた(涙)

その後すぐに、ドイツ語の話せる日本人の友人に付き添ってもらい、外国人局に行ったはいいが、そこのおばちゃんに「まだ滞在許可が3ヶ月も残ってるのに、なんで来たんだ?」とか言われてしまった…。

安心したことには安心したのだが、未だに「あの領事館の指示はなんだったんだろう…」と思うことがある。

最初のころによくへこんだことは、「外国では英語か現地語がしゃべれない奴は、相手にされない」ということだった。

Ziviの兄ちゃんに外国人局について質問した時に、私の言いたいことが理解してもらえず、向こうの言ってることも分からなかったので、日本語のしゃべれる台湾人の人を探してきてもらって、会話したことがあった。
目の前で「こいつ、外国人局に一人でいくつもりらしいよ。どうするよ?」という会議が私抜きで行われてしまった。

そうなると私のような奴は、良くて「子ども」、悪けりゃ「置きものか犬ころ」も同然の扱いを受けるのである。
みんな親切だったからこそ、心配もしてもらったのだが、20歳も越えて、大人扱いされないのは辛いものである。

こういった交流障害は、いまでも日常茶飯事である。
ひとつひとつの出来事をいちいち気にしていたら、ノイローゼになりかねないので、すぐ忘れるようにしている。

ドイツにやってきて、一番最初に身につけたことは、多分、物事をすぐ忘れる能力日本語の標準語だった…。


01.06.2002記(06.25.2008改)

日本脱出

私がドイツにやってきたのは、およそ受験の1年前。その時はドイツ語なんて全く出来なかった。
とりあえず、3ヶ月分だけ日本で語学学校の申し込みをしていて、この3ヶ月の間に良さそうな美大を探し、滞在許可の延長をしなければならない。
3ヶ月後にはどこか他の町の語学学校に移る予定だった。

最初の語学学校は、かの有名なゲー○・インスティテュートで、選んだ理由については他の学校を知らなかったことと、大学の時にお世話になったドイツ語の先生に「最初はゲーテがいいじゃない?」と言われたためだった。

「さあ、留学するぞ!」という日本脱出の時だったから、さぞかし希望に燃えていただろう、というとそうでもない。
その逆で、根が小心者なので、不安の方が大きくって眠れないほどだった。

私の友人達は就職していたり、就職活動中だった中、私は留学を選んだわけだが、もちろん美大で勉強するためには入学試験に合格しなければならない。その試験に合格するかどうかなんて分からなかったし、もし合格できなかったらどうするんだろう…、とか考えていた。

もし入試に合格できなかった時は日本に帰って来ることになるだろうけど、就職できるんだろうか?
ドイツでデザインを勉強する、しないに関わらず、将来、どんな仕事ができるんだろう?
そもそも、将来的に働けるんだろうか?

そんなことをドイツに入国するまで考えていたのである。

こんな小心者だから、ドイツ行きの飛行機に乗るにも気合が必要で、大型スーパーの備しもの会場に座っていた、胡散臭そうな占い師のおねーちゃんに「あなたはドイツで成功します」とか、都合のいいことを言われて、やっと気力が出た覚えがある。

しかし、飛行機の中はツアー客ばかりで、おまけに隣に座ったのは、ツアー客のどこかの高校数学教師のおばちゃんで、「ドイツに留学する。大学は卒業してい るが、仕事は辞めてきた」と言ったところ、いきなり「最近の若い人は…」と説教されてしまい、とってもブルーなフライトとなった。

が、そんな心配ができていたのは、飛行機の中だけだった。

ツアー客でもない私は、自分で税関を通過する必要があったし、空港駅から語学学校のある町までの切符を買わねばならなかった。
ドイツ人は英語をかなり達者にしゃべる。が、私は英語はしゃべれないのである。
当時の私のドイツ語力は、ドイツ人の赤ちゃんの方がはるかにマシなほどだったので、5年や10年先の就職の心配をしている時間なんてなく、「どうやって切符を買おうか」とかいう些細なことの方が重要だったのである。

おどおどしていたら案の定、パスポートチェックでとめられてしまった。多分、パスポートに貼ってあったビザシールのせいだと思う。
何にかをみせろ、と言われていたらしいが、なんのことやらさっぱり分からず、「なに言ってるんだ、このにーちゃん…」という目で、検査官のにーちゃんを見 つめたら、「こいつ、こんなにドイツ語わからなくって、語学留学だってよ」ってな感じで、鼻で笑われたが、無事にその場を通してもらった。

その後、友人からもらった「旅に役立つドイツ語集」を握り締めて、窓口で切符を買って、どうにか語学学校のある町までたどり着くことができた。

その日はホテルの近くのマクドナルドでアヤシイ英語でチーズバーガーセットを仕入れ、夜の8時には眠りについた。

これが、私のドイツ初日だった。
時差ぼけも合あって、とにかく疲れた1日だった…。


01.06.2002 記(06.25.2008改)

何でドイツでデザインを?

この質問は、日本人をはじめ、ドイツ人、他の国の人達にも何回もきかれてる。

「何でって?ドイツ好きだから…」

と、その都度答えてる私…。かなり説得力がないのは自分でも承知の上なのだが、他にこれと言った言い訳のないので。

他の理由としてあげられるのは、英語嫌いだったとか。
自分で言うのもなんだが、ロクでもない…。

前には、ほんの少しだけ具体的な理由があったのだ、。
私が「留学しよう!」と自分の中で決心した当初、ドイツで絵画か彫刻を勉強するつもりだった。
まわりにドイツ芸術びいきの人がいて、その人のドイツ滞在中の話なんかを聞いているうちに、なんとなく「ドイツかー、行ってみたいなー」と思うようになったのだ。

この憧れのようなものが、具体てきな形になったのは、日本で大学を卒業しようとしている時だった。
自分のやりたいことやら、将来のことやら考えると、もうちょっと勉強したい、と思ったのだ。

そこで、自分の中で、「ドイツ留学」が浮かび上がってきた。ドイツの芸術が好きだし、何回かドイツ語圏を旅行したことがあって、イギリスやフランスよりも自分に合う気がしたのだ。もちろん、ドイツの芸術が好きだということもあった。

それに、結構有名な話だし、このページを見ている人なら知っていると思うけど、ドイツでは大学の授業料が無料(2008年現在、一概にそうとは言えなくなりました)なのだ。

「留学」と聞くと、大抵アメリカかイギリスを思い浮かべると思うが(私がそうなんだけど)、かなりのお金が必要だという話を聞いた。
イギリスに留学していた人の話では、だいたい「日本の私立大学の授業料程度」が授業料の相場だとのことだが、そんな金額は私にはとうてい払えない。従って、私の留学先はドイツに決定した。

その後いろいろ考えて、最終的には絵画や彫刻ではなく、デザインを勉強しようということになった。
割と安易に留学先を決定し、何度か旅行に来たことがあったくらいで、よくもどうにか大学に入学できたなー、と今では自分でも感心してしまうところである。

最近よく思うのが、「ドイツ語がこんなに難しいなんて、日本にいるころに分かっていたら、どうしていただろう?」ということ。

私に英語の下地がほとんどないということが原因なのだろうが、大学に入学するまでの1年間、ドイツ国内の語学学校で、それこそ大学入試のときよりも真面目に勉強したにもかかわらず、今でも授業中のドイツ語は分からないことがよくある。

でも、ドイツ語という言語を気に入っているし(めちゃめちゃ難しいけど)、誰に言われたわけでもなく、自分で「ドイツに留学する」と決めてやってきたわけだから、四苦八苦しながらもどうにか楽しんでいるといった毎日である。


01.06.2002記(06.25.2008改)

はじめに

このブログは辰年生まれの蛇使い座、日本産の私「こたつ」がドイツだったり、オランダだったりの日常を綴っているものです。
私の視点からの欧州または人間観察、平たく言ってしまうとただの日記ですので、ここに書かれてことがひょっとしたら一般的ではないかもしれませんが、その辺はご容赦を…。

2001年秋から6年間、ドイツの美術大学にてプロダクトデザインを勉強していました。

2002年にこのブログ前身となるホームページを立ち上げ、しばらく運営していたのですが、そのうち面倒になりまして…。
ここ3年くらいは日記以外のコンテンツは更新が全くない状況だったのですが、どうにか大学も卒業できて一区切りついたことなので、中途半端になっているサイトを整理することにしました。

私がドイツ留学を目指した2000年ごろにはドイツ留学の情報も少なく、美術留学なんて「え?ドイツで美大に留学する人なんているの?」というくらいマイナーな道だったため、苦労しつつ一から十まで自分で調べる必要がありました。
ホームページを立ち上げたのは、その時の経験から、私のようにドイツで美術留学を希望する人が、とりあえず大学入学から実際の勉強、在学中の試験など、「ドイツの美術大学ってこういう感じなんだ」というような、おおまかな流れをつかんでもらえたら、と思ったわけです。

サイトを立ち上げてから、現在まで5年以上経過しており、最初のころに書いた文章には当時の大学生活の精神的な余裕のなさがにじみ出ていたりで、読みづらいところも沢山ありますが、いまさら書き直そうにも忘れていることが多々あり…。
ですので、前に書いた部分はできるだけそのままこのブログに移して、足りない部分を書き足すことにしました。

現在は日独間のワーキングホリデー導入もあり、美術留学される方が増えているみたいですが、こちらの情報が少しでも、これからドイツに留学をしたいという方のお役に立てれば幸いです。

Sunday, June 08, 2008

日焼け

金曜日に職場でスポーツ大会があったJ君。
ここ数日、毎日天気が悪く気温も20度そこそこだったので、暑さにも日焼けにもまーったく対策を練らずに「いってらっしゃーい」「いってきまーす」と家を出て、夜帰宅したJ君を見て絶句。

一目で日光にグリルされてきたのが分かる、日焼けっぷりです。
J君、もともと色が白いので、日焼け箇所の赤さがさらに痛々しく…。
冷やして、水分をよく摂取すること以外に対処法がないとは言え、その夜は痛くてあまり眠れなかったよう。

そして、次の日には日焼けの痛みは引いてきたものの、今度はスポーツによる筋肉痛に加えて、特に激しく焼けた箇所から黄色い膿が出てくる始末。

…ごめん、かわいそうなんだけどさー…。
なんだか不気味で…。

さて、これからどうなるんでしょうか?
日焼け箇所が全部むけてくるとか?
…それはそれでまたコワイ絵になりそうです…。

(写真は一番日焼けのひどかったうなじあたり。赤と白のコントラストがポーランドの旗のようです)

Thursday, June 05, 2008

便○

日記がご無沙汰だったっていうのに、あんまりさわやかじゃない話なのですが…。
すごい○秘に悩まされております。
私じゃーなくって、J君の方なのですが。

本人も結構苦しいらしく、朝ごはんをMüsli(ミュスリ=オートミール)に代えたり、ヨーグルトを食べてみたり、こっちでは便○に聞くと言われる梅ジュースを飲んでみたりしているのですが、ほとんど効果はなく…。適度な運動を、とウォーキングとかもしてるんですけどねえ。
妊婦さんのごとく、日に日にお腹がおおきくなっていくのが端から見てても分かるんですよ。(そして、やっとのことでアレが出た後には、びっくりするほどお腹が引っ込む)

こういう症状は女性に多いみたいなのですが、私は生まれて今まで○秘になったことなんて、1度もないしなあ…。
J君もいつもいつもこんなに大変な思いをしているわけではなく、環境が変わったり、ストレスがあったりすると、こういうことになりそうで…。

でも、職場変わったのは半年前だし。
あ、私が日本から帰ってきたのが2月の頭で、それ以来、ずーっと家でごろごろしてるから??
毎日、鬼嫁にイビられて、精神的に参ってるとか…?

なにか効果的な療法ってないものでしょうか?